臨場感があるとイメージが膨らみます

2021年8月30日

最近私のブログの立ち位置を考えます。

別に新しいことを皆さんにお伝えしているわけではないので、今日的需要からすると価値のないものに見えます。

なぜそう考えるのかというと、YouTubeを見ていると、結局はインフオメーションの伝達機関に化していると感じるからです。インフォメーションがどうでもいいというのではありませんが、もっと大事なことは、そうしたインフォメーションを活用しながら自分で考えるということだと思っています。

若い頃、ある人から新聞の読み方というのは、九つの違う新聞を読んで、十番目に自分の考えを持つことなのだと言われたことがあります。イギリス人の新聞の読み方だと後で知りました。もちろん今日のプロパガンダに徹してしまった新聞、メディアのあり方からすれば、そんな考えは時代錯誤で、意味を持たないものになりますが、要するに大切なのは情報は情報だということをはっきり弁え、それを鵜呑みにするのではなく、という基本的なことは時代が変わっても十分通じるもののようです。

 

私もブログに情報的なものを時々書きますが、その時にも、読み手の思考を刺激するものであって欲しいと願って書いています。

読みながら考えていただきたいので、私の講演のように結論がどうなのかとは一切無縁です。時には尻切れトンボだと言われてしまいますが、初めからそれを知っての上です。

しかし読み手に考えてもらえるように書くなんてできるものなのでしょうか。ただ結論を出さなければいいというだけのことではないわけで、まずは読み手をワクワクさせなければなりません。しかも読み手が五十人、百人といるとなると、焦点の絞り方が難しくなります。

とりあえずは自分が書きたいことを書くという事に決めています。それを、ある程度は、他の人が読んでも自分の問題だと感じていただけるように心がけますが、基本は自分の描きたいことです。とは言いながらも、読み手が自分が抱えている問題にオーバーラップしていただけたらと願っています。

自分が書きたい事をというと、とても主観的なことを書いていると思われがちですが、確かにそうした一面は否めませんが、意外と私個人が興味を持っていることを他の人も似たように感じていることがあるものです。私の講演経験から言えることです。大切なのはその主観的な内容を具体的に、できるだけリアルに書くことで、そうすると他の人にも伝わり方がいいようです。私はこれを文章における「臨場感」だと思っています。そうだそうだと同調できるものです。

私の祖父は大の野球好きで、ナイターがある時は決まってラジオで、91歳でなくなるまで聞いていました。テレビで見るより、ラジオの実況の方が野球がよく見えると言って、テレビの時代になってもラジオで野球を楽しんでいました。今思うとこの臨場感だと思います。自分でも野球をやっていたので、アナウンサーの言葉から色々と想像を膨らませていたのかもしれません。祖父に詳しく聞いたら、テレビの実況は映像に頼りすぎでいると言ったかもしれません。

百聞は一見に如かず、と言いますが、言葉の方が映像以上に想像力を刺激するというのも事実のようです。

文章の世界でいう名文は、この臨場感を持っているように思うのです。読んだときに、まるで自分のことのように感じさせる力です。外国の話だとか、源氏物語のように千年以上前のことでも、力のある文章は臨場感を持っていますから、時空を越えて読者に語りかけます。

翻訳で外国文学を読むのは、日本語で書かれたものを読むのとは相当違います。なかなか文章に馴染めないで、途中で諦めたものがずいぶんあるように思います。英語の先生が、外国文学をたくさん読め、それも英語の力をつけるには役に立つ、と言っていました。翻訳の日本語は表ヅラは日本語でも半分はまだ原文なのです。翻訳調というのは半分は外国語だということだったんです。

今シュタイナーの普遍人間学を訳していますが、この問題に常にぶつかっていて、翻訳調を克服して、本意を正確に日本語として伝えたいと願うのです。それが臨場感につながると思うからですが、なかなか納得のゆく訳になってゆきません。内容を伝える事に主眼をおけば、箇条書きでいいわけですが、文章として読むことでイメージが膨らみ、インスピレーションが得られるのだと思っていますから、臨場感のある文章にしたいのです。講談や落語でも臨場感があるかないかで同じ話でも全く違ったものになります。

臨場感のある翻訳が提出できたらというのが今の私の願いです。

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