精神性と精神的と

2021年9月7日

精神性とか精神的とかは、知識人たちがよく用いる言葉で、小難しい本を読むと随所に散りばめられているのですが、最近それらがなにを言っているのか分からなくなってしまいこの言葉が使えなくなっています。同時に精神的な人とか精神性に溢れた人というのはどういう人のことをいうのかが分からないと言うことでもあります。

以前は精神的なと言うのは物質欲の反対だと単純に思っていました。だからと言って貧乏している人が即精神性の高い人というわけではないのですが、キンキラの洋服をきて、高級な履を履いて、メガネをかけ、ブランドのネクタイや腕時計をなんていうのは精神性からはかけ離れていると思っていたわけです。
偉いとか、偉くないとか有名だとか無名だとか、そういう社会的なポジションも直接は関係がないようです。偉くても、自惚れることなく世のため人のために、まるで読み人知らずの歌のように、尽くしている精神性の高い人はいます。下っ端で嫉妬から他人の悪口ばかりを言っているだけの人もいます。

修行と精神性はどうでしょうか。大変な修行を積んだ人のお話を何度か聞きました。その方本人は静かなオーラに包まれていましたが、大人数の聴衆がいる講演会のような所だったせいか、お話に精神性を感じることはありませんでした。一般人に向けて話をすると、内容がどうしても一般的なところでストップして薄まっているので無理もないことなのでしょう。二人でサシで話したらもっといい話が聞けたのかもしれません。一般的には、精神的な話は説教的なところが期待されているのでしょうか、修行を積まれた方のお話も人生訓のようなお説教じみた雰囲気を漂わせていました。個人的には、精神的なと言うのは説教とは無縁だと思っています。

精神性に至るには、人間としてダメな所を通ってきたり、エゴに染まって、色や欲にまみれた経験が必要なのかもしれません。それがいわゆる形式的な型にはまった修行よりもずっと修行ではないかと思っています。現実に即した日常的修行と呼んでいます。

精神的なというのはボジティブに捉えるというものです。ただ単にポジティブなのではなく、ネガティブな自分を知り尽くしたところに現れるポジティブです。ある意味では影の含みを感じさせるポジティブということです。

ポジティブに考えればいいわけですが、これが意外とできないものなのです。自分ではポジティブと思って考え行動していても、他人から見ると全然そんなことはなく、押し付けがましい、嫌味なポジティブであったりするものです。

人生の根本とか、宇宙の法則とか、神様のことを本質的に弁えている人を精神的な人と言っていいのではないかと思っています。それをユーモアで語れる人かもしれません。

スピリチュアルとの関係がよく分からないので、そこをもう少し整理したいと思っています。

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