精神性と神秘性

2021年9月9日

現代風といえば、神秘性の方でしょう。ここでいう現代は本当につい最近の現代で、それ以前は精神性の方が色々な方面で幅を利かせていたと思います。私はユリ・ケラーのスプーン曲げを境に神秘性が優位に立つようになったと思っています。神秘のトピらが開かれたということなのかもしれません。

今は精神性は見事に片隅に追いやられてしまって、誰も見向きもしなくなってしまいました。
私は精神性は普遍的なものだと思っています。哲学がいつの時代にも根本にあったようなものです。ところが若い人たちと話をしていると、古臭い昭和の人間だから精神性にこだわっていると思われてしまう現代の風潮もしみじみ感じています。哲学は普遍的なものですが、よく似た雌雄鏡には、言葉は悪いですが、賞味期限のようなものがあるように思えてなりません。

シュタイナーの人智学は神秘的なことが扱われますが、基本は精神性だと思っています。哲学です。世界観です。
シュタイナーの本はずいぶん読みましたが、読めば読むほど神秘的でなくなって精神的なものになってゆくのです。シュタイナーの中で神秘は、説明のための手段だったりするので、ある意味、現象的なもので、その神秘は精神性を帯びることで、手応えのある本物になって行くのだと思っています。
こんなことも言えます。
神秘はお金になります。お金がついて回ります。ところが、精神性はお金には縁がないのです。精神性にこだわる人がお金を忌み嫌っているからだという人もいます。そういう一面もあるのかもしれませんが、精神的なものにはお金がついてこないのです。私にしても、そのことがいいことだとは決して思っていません。精神的なものを実践するにはやはりお金が必要なのです。

最近縄文社会に興味を持って接しているのですが、当時はお金がなかったらしく、それに変わる何かが社会の土台にあったのです。多分今日の言葉で言えば「信頼感」と言えるようなものです。もちろん当時は今日のような唯物的な社会ではなく、神様の力が満ちていて、神様とともに生きていたのでしょうから、世界観にしても、人間そのものが今日と全く違ったものだったはずです。
さらに、当時は所有ということがなかったらしいのです。沖縄から船で30分ほど行ったところにある、本島からも見える久高島は不思議な島です。今でも所有という制度がなく、ある年齢になると島から土地を預かり、それを生涯耕し、年が来ると再び島にお返しするというのです。それは日本政府からも認められた形で行われている、所有の無かった社会の生き残りのような珍しい社会なのです。でもそれが縄文の当時は普通だったとなると、そこに争いがなかったということが信じられるようになります。
縄文人たちは名前を持っていなかったという記述を読むと、確かに今とは相当違う社会だったのだろうと想像できます。名前が必要になるのは戸籍制度ができてからなのかもしれません。もし人間に今とは比べ物にならないほどのインスピレーションがあったら、名前は無用の長物のような気がします。確かにあまりに違いすぎて想像するのが難しいですが、名前なんかなくてもインスピレーションがあれば以心伝心で十分なはずなのです。名刺を差し出されても、その人の本質は分からないわけです。どんなにたくさん肩書きがあっても、その人のことはインスピレーションほどにはわからないのです。ただ庶民を取り締まりたい支配層の人たちにとっては、非常に便利なものだとは想像がつきます。今日のマイナンバーのようなものです。

縄文社会は神秘的ではなく、今日的な言葉でえば極めて現実的だったと思います。ストーンサークルのようなものからエネルギーをもらっていても、それは神秘ではなく、現実だったのです。パワースポットも結界のためのもので、今日的な意味ではせいぜい祈るためのものであって、神秘ツアーの観光地ではなかったのです。

神秘に染まると足元が救われてしまいそうになります。ただ神秘の奥に哲学としての精神性が貫いていれば、その神秘は現実のものとして、生きる力に変わるものです。

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