ナガラ族礼賛

2022年2月5日

先日手仕事をしながら音楽を聞いていました。いや音楽を聴きながら手仕事をしていたという方が事実にそぐっています。実を言うと大変な「ナガラ族」なんです。

そこで聞いていたのはモーツァルトのジュピター交響曲でした。この曲を最高の交響曲と褒め称える人は昔も今も後を絶ちません。モーツァルトの音楽の中では重厚さがあり、堂々とした音楽ですから、「ナガラ的」に聞いてはいけない様な音楽なのです。正直少し後ろめたさを感じながらこの曲を選んだのですが、素晴らしい発見がありました。

モーツァルトの音楽には聞き手を包み込むものがあるということです。手仕事の手を止めることなく、音楽に包まれながら気持ちよく仕事が捗ります。

コンサート会場でこの曲を聴くとなると、この曲にしっかり立ち向かうように聴きます。真剣に聴ききます。

しかし手を動かしながら聞いていると、聴き方は全く違って、音楽を片手間に聞くわけですから、コンサートホール的ではなく、リラックスして気楽に聞き流しながらとなります。こんな状況の中で新しくモーツァルトに出会ったのです。

そうして聞くモーツァルトはなかなかいいものです。仕事をしている私が音楽にすっぽりとつつまりた様な感じで、手仕事も捗るのです。YouTubeで聞いていたので、自動的に次の音楽に移行します。気がつかないうちに音楽が変わっていて次はベートーヴェンの第3番の交響曲「英雄」でした。今まで音楽に包まれて滑らかに手が動いていたのですが、この音楽は、仕事の邪魔をするかのように私の注意を引こうとうるさいのです。その度に手が止まってしまうのです。この音楽は自立していない子どもの様で、「ねぇ、ちょっと聞いてよ」と私の注意を引こうと一生懸命なのです。どうでもいい手仕事ですが仕事をしているので手は休めたくないので、ての方に気持ちを集中させ聞くのをやめようと思うのですが、しつこく「ねぇ聞いてよ」と言わんばかりに私にちょっかいをだしてくるのです。「うるさいやつだなぁー」と10分もしないうちに消してしまいました。

主張しないと言うことの偉大さを、しかも「ナガラ族」をやりながら発見したのです。

これは同時にモーツァルトの発見でもありました。モーツァルトも、もしかしたら「ナガラ族」だったのかもしれません。あるこれを同時に幾つもやってしまうようなタイプだったのかもしれません。しかしそのことで一つのことに固執することなく、そして向きになって主張することなく音楽の偉大さを伝えることができたのかもしれません。

モーツァルトの音楽のかるさはよく言われますが、実は「かるみ」と言う方が多々しく、存在感のある無重力ということです。

今日はピアノ協奏曲21番の第二楽章を聴きたくなりました。天上を明るく無邪気に遊ぶ子どものような音楽です。この素直さにはいつも驚かされます。

私たちの模範かもしれません。私は悟りよりも大きなものを感じます。

 

 

 

 

 

 

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