マリオネットをめぐってる雑感

2022年2月6日

糸に操られて動くマリオネット人形はぎこちない動きの中に余韻を残しているのが魅力です。それは人間の動きとは違うものですが、しばらく見ていると人形であることを忘れることもあります。

ドイツの作家、クライストはこのマリオネットの動きを詳しく観察して、人間の動きからは感じられない、人形の動きの中に隠れている魅力を整理しました。舞台などで動くことをお仕事にされている方にはおすすめの読み物です。20ページほどの小説仕立てにした簡素なものですが、考えさせる視点が凝縮しています。

簡単にいうとマリオネットの動きは理想的なのではないかということです。

人間は自由意志で、自由自在に、思いのままに動くことができると考えるのが普通です。人形の糸に操られている不自由な動きと比べて、それを自由な動きと見るのですが、思いのままに動ごけるから自由だとするのは、単なる思い込みであったりするという落とし穴に落ちるものです。

マリオネットに限らず人形浄瑠璃の人形の動きも別格の美しさを持っています。人形の淑やかな動きは役者さんのものとは違い、ぎこちなさ故の妖艶さがあります。フランスのダンサーで親しくしていた人が「日本に行くたびに見るのは文楽です」と言っていたのは、人形の動きから何かを学んでいたのかもしれません。

 

若い時に「まだなんの苦労もしていない手だなぁ」と私の白魚のようなか細い指を見て言われたことがありました。のほほんと自由気ままに生きてきたのですから、障害物に出会ったこともないわけで、苦労はしていませんでした。その人は「苦労しなければ分からんことがあるんだ」と言って去ってゆきました。その言葉はずっしりと若い私の中に落ちてゆき、ことあるごとに自分の手を見る習慣がついてしまいました。今は少しは苦労した手になっているかもしれません。苦労しないと、というのは不自由を感じてということで、そこから自由という境地に初めて向かえるということと解釈していました。

 

無我夢中で生きているときは、自由のことなど考えないものです。それは自由と程遠いからではなく、無我夢中という豊かさの中で充実しているので、自由のことなど考えなくても済むのです。

自由というのは、良くも悪くも自分との間に隙間ができた時に考えることなのかもしれません。何かの方程式の別の言い方だと思っています。自由というものがあるのではなく、自由というのは導き出すということが大切なことだということかもしれません。私というのはその方程式から導き出された答えのようなものです。しかもその方程式は一つだけでなく、人の数だけあると言っていいいと思います。

 

マリオネットは糸によってしか動けない不自由な存在です。その糸は人形と、人形を操る人の間にある方程式のようなものではないのでしょうか。

この糸は自由の糸と呼んでいいものなのかもしれません。

 

 

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