焦点の合わない自己認識と曖昧の様な「ぼかし」

2022年12月11日

自己認識、自己規定とは違うと思うのですが、どちらもよく似ていて、しっかり当てにならないものの様です。「私って、僕って   XX  なんです」と自分を決めてかかる人ほどその内容とかけ離れているもので、見事に当てになりません。そばで聞いているとおかしくて腹を抱えて笑ってしまうことがほとんどです。

それを大きく括って自己認識ということとすれば、自己認識と偉そうにいう割には当てにならないものの代表ということになりそうです。原因を探すとすれば、自分というのはそんなに簡単にわかるものではないということでしょうか。

 

ドイツで生活していると、ドイツ人というのは日本人以上に自分を自分で規定したがる傾向が強いことに気が付きます。一種の自己主張だと私は思っています。もちろんそうでないドイツ人も稀にですがいます。とにかく自分を表に出したいのです。自分のライフスタイル、自分の趣味、自分のステイタスというものを大変に気にしている様なのです。そんなのどうでもいいじゃないかと、日本人の私は思う時もあって、思い切って言ってみるのですが全然通じていないようです。自分で作った枠が壊れたら自分がいなくなってしまうくらいに考えているのだと思います。「そんな枠なんかない方がずっとあなたらしいですよ」なんてドイツ的には通用しないのです。

この傾向がドイツ的と括っていいのかどうか疑問に思う時があります。というのはこれがキリスト教の一神教的考え方からきているとも考えるからです。ドイツ的と一神教的とが混ざっているのかもしれません。

線のくっきりした絵が西洋の絵だと思っているのですが、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザの顔は線では描かれてはいません。どちらかというとぼかしを感じるのです。そのために表情とは呼べない世界が出現します。単に手法としてのぼかし以上のものを感じるのでとても不思議な絵です。もう一つ感動的なぼかしの顔は、フランスのアルザス地方のコルマールにあるイーゼンハイマーの祭壇画のキリストの復活した時の顔です。作者はグリューネヴァルトで、彼の描いた復活したキリストの顔は厳しさと優しさを兼ね備えていて、線ではなくぼかしで描かれています。

もしかすると西洋という文化の中にも、潜在的に、ぼかしで言いたいことを言うという精神性があるのかもしれません。私には今あげたどちらの絵もいつまでも見ていられるのです。ぼかしを通して、私の中で私なりの輪郭を作って良いからかもしれません。

ここで言っておかなければならないのはイギリスの画家ターナーのことです。のちのフランスの印象派に多大の影響与えた画家です。彼の絵のもつぼかしは今取り上げた二人のぼかしとは少し違う様に思っています。モナリザと復活したキリストのぼかしは写術的技法から導かれたぼかしではないのに対し、ターナーの方は意図したぼかし、線離れとしてのぼかしではないかと思っています。

 

ぼかしは曖昧に通じるもののように思うのですがどうでしょうか。大江健三郎氏がノーベル賞を受賞した際の演説で、日本的を「曖昧」というふうにして、あまり肯定的でない印象からお話しされていた様ですが、曖昧は見方次第では大きな力だと思うのです。唐突かもしれませんが、俳句などはぼかしの美学からしか生まれないものだと思っています。西洋人の作る俳句はデッサン的で線的ではないかと感じています。同じノーベル賞作家でも川端康成氏の世界はくっきりした文章とは裏腹にぼかしの世界です。

私がとても関心を持っている音楽家シューベルトは西洋音楽の中で珍しいくらいぼかしを心得た音楽家です。おそらくぼかし系の作曲家としては唯一といつても良いのではないかと思っています。モーツァルトのくっきりしすぎるくらいの線的な音楽と比べると、シューベルトの作品はとても興味深いぼかしの世界からのものです。シューベルトの音楽に東洋を感じる一つの要因です。

初めに戻って自己規定についていうと、自己規定は線で自分をくくろうとしているものです。もしかすると自分というのは線では描ききれずに、ぼかしの中で、ぼんやりと見えてくるものなので線で括ってしまうところに無理がある様です。

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