どんぐり自然学校主催のオンライン講演会

2022年10月30日

一年ぶりのオンラインの講演会でした。

何度やってもなかなか慣れないもので、今朝は興奮していたのでしょう、四時に目が覚めて、日本の朝食を作ることにして時間潰しをしました。味噌汁、ご飯、漬物、卵焼きと簡単なものですが、今日は日本語を喋るから日本の朝食がいいと思い、真っ暗な台所に行き、ゴソゴソと仕事を始めました。お腹いっぱい沢山食べたら、疲れが出てきて、二度寝のために横になったらうとうとと寝てしまいました。七時前に起きて、今度は散歩をして、iPadの位置、花の位置、背景、光の具合を確認しながら打ち合わせの時間を待ちました。

八時半にホストの方が入場され、いよいよzoomに入って、講演会の最終打ち合わせです。

講演会開催に際しての代表の方の挨拶があって、話がスタートしました。

すでに私の元にチラシが届いていて、そこから心がテーマだということかは承知していたので、自分にそのことを言い聞かせながぼちぼちと話を始めました。心って心臓とどう関わっているのかという疑問が準備の時に出ていたことも伺っていたので、まずはそこから整理しようと決めていました。

実は心臓という臓器は、初めから体の中にできているものではないということをぜひ確認しておきたかったのです。初めにできるのは心臓ではなく血なのです。血は胎児の成長の中で相当初期の段階で体の中に生まれます。その血が動き始め、動いた後に血管ができてゆくのです。血管も元々あったものではなく、血が作るものなのです。血管ができると脈がつくられ、最後に心臓というものに出来上がってゆきます。心臓のそもそもは血なんです。

そうしてできた心臓は臓器として大切な役割をになっています。一般には血を送り出すポンプの様に考えられていますが、心臓は私たちにポンプの様に見えるだけで、血はそもそも自分で動いているものなのでポンプなんかはいらないのです。ではハートとして心を象徴する心臓はなぜハートなのでしょう。人間の二つの能力、知性の部分と、衝動の部分の間にあって二つの要素を調合しているのです。それが私たちがいう心の姿でもあるので、心と言えば心臓ということになり二つが深く結びつけられるのかも知れせん。

こんな話をしながらシュタイナーが人間を語るときに時々使う三つのMの話に移行しました。人間、ドイツ語ではMensch、モラルMoral、そして音楽Musik、の話をしました。

人間というのは一人では完結しないものだと考えられています。自分と相手があって、しかもその間に行き来するものを感じ取り、その中心の部分を手がかりとして、自分と相手の間にシビアな現実を感じ取るセンス、そのセンスそのものが人間の姿だというのです。

もう一つのモラル、Moralというのは、かつての日本の修身の様に物差しがあるのではないのです。人間生活にはほとんど同時に存在している善と悪のあいだを行き来するものの中にモラルとなる手がかりを感じるセンス、これがモラルだというのです。モラルがあるのではなく、善と悪の両方を感じるセンスの中にモラルが生きているということです大切なのはセンスです。。

今日の社会状況のようにどこに善があり悪があるのかがわからない様な状況では、このモラルの考え方は私たちにを、報道が混乱させている善と悪から守ってくれると思います。性善説であり性悪説であるのが人間であり、モラルなのです。

音楽がなぜそんな所に顔を出すのかと思う方もいると思います。シュタイナーはシェークスピアのベニスの商人という戯曲の中の一節をよく引用します。「音楽を知るものに悪人はいない」という言葉です。ここでいう音楽ももちろんセンスとしての音楽ですから、楽器ができるとか歌が上手だという演奏技術としての音楽ではありません。この音楽のセンスというのは、ちょっと面倒くさいですが、前世で、自分と周囲との関係を活き活きと体験しながら人生を送った人は、次に生まれ変わる時、音楽的センスを持って生まれるというのです。繰り返しますが、楽器が演奏できるとかいうことではなく、音楽のセンスです。これは基本的には芸術のセンスでもあり、ひいてはものを作るということにも通じるものです。なぜなら、ものを作るというのは自分と素材の間を行き来しないとできないからです。レシピがあって作るのではなく、レシピなしで作るのが物作りの基本です。ちなみにシュタイナーは人智学や、シュタイナー教育はレシピではやらないでほしいというのですから、シュタイナーのレシピ嫌いが伺えます。レシピも見方を変えれば物差しです。

私たちは物差しから解放されなければならないということだと思います。大切なのは物差しではなくセンスです。このセンスを感じ取っている時、私たちは生きる意味をその中に感じ取っているのだと思います。生きる意味は初めっから決めることなどできないものです。心臓が初めっからあったのではないというここです。生きながら、自分と周囲の間を行き来しながら感じ取るものです。善とか悪と戦いながらその両方に味方することなく、その間を流れている力の中に中心になるものを見つけそこを手がかりにしながらモラルというセンスを感じて生きると、そこに生きる意味を感じられるものなのかも知れません。

センスということを伝えるのはとても難しい仕事です。

あの人料理のセンスが良いのよ、色のセンスが良いのよ、というふうに使う時にはなんとなくわかる様な気がするのですが、自分と相手、周囲を感じるときに生まれるセンス、ぜんと悪の空いたを感じるセンスなどいうととてもわかりにくいものですが、センスというのはそもそもそういうものでわかりにくくできているのです。

でもセンスに辿り着いたら、人生の中で大きな宝物を見つけた様なものです。

どの辞書をめくっても出てきません。クイズ番組が手をやく、わかりやすい答えのないものです。

ぜひ人間というセンスを磨いていただきたいと思います。

 

こんなふうにまとめれば今回の講演のコアな部分には触れたと思います。

またお話をする機会があれば。この続きでも話してみたいと思っています。

 

今回の準備を進めて下ったどんぐり自然学校の方達に心から感謝いたします。ありがとうございました。

 

 

バッハの音楽

2022年10月17日

バッハの音楽について書いてみます。

好きとか嫌いで片付けてはいけないくらいバッハは客観化されているように私には見えます。偉大がゆえに好き嫌いの対象であってはならないということです。

私は六十年くらい相当密に音楽と付き合っていますが一度もバッハの音楽のファンになったことはないと思います。一時的に興味を感じたりしたことはあっても、たの多くの音楽のように「私のそばにいる」という感触を感じたことはありませんし、一般的に評価されているように素晴らしい音楽だと感じたこともなく、いつも逆になぜ多くの人がバッハをこんなにも讃えるのかが不思議でならないのです。

ヨハン・セバスチン・バッハは近代音楽の父です。何を根拠にしてそう言うのかは知りませんが、同時代のヘンデルなどは過去を向いた音楽という評価をする人たちがいます。どうやらバッハは過去を向いてはいない様です。

世界中から最上級の尊敬を集めている音楽家ですが、作曲技法としてフーガ、対位法を巧みに組み立てた作品が高く評価されています。平均率クラビア曲集の中には複数の声部が絡み合うフーガがあるとピアニストの友人が、彼の恋人のことを話すように、いやそれ以上に親身になって話してくれました。そう言われても、私にはそれが音楽の美しさとどういう関係があるのかがわからないのです。

 

バッハの音楽は複雑に理屈を捏ね回しながら説明するのに適した音楽だと思っています。説明出来るから音楽が素晴らしいと考えるのは知性中心の現代社会の特徴だと思います。きっとそのあたりが近代音楽の父と位置付けられる原因の様ですが、それは落とし穴でもあります。

ドイツ人と話をしている時に感じる独特の癖をバッハの音楽を聴いている時にも感じます。そんな時「バッハは典型的なドイ人なんだ」と思います。ドイツ人のバッハ好きに聞くとこんな答えが返ってきます。「1番好きなのはバッハ、2番目はバッハ、3番、4番はいなくて5番目はやっぱりバッハ」。人と話しをする時心がけることがあります。相手がよくわかるようにわかりやすく話そうということですが、ドイツ人は逆で、特に相手が私のように日本人だと見ると、できるだけ話を難しくし、普段は使わない単語を並べ、特に本人もよくわかっていな外来語を織り交ぜながら話します。きっ本人も自分の言っていることがわかっていないのではないかと思えるほど複雑怪奇です。

バッハの音楽は自己陶酔的であり、自閉的です。ここら辺も現代という時代感覚にマッチし、近代音楽の父と呼ばれるものに通じるのではないかと思います。自閉的ということは、天才的に時代を先取りしていたのかもしれません。機械仕掛けで動く仕掛け人間の様です。計算された通りに動くわけですが、温かみのある動きは見られません。私の歌の先生は「ミシンをかけているみたいな音楽」とよくいっていました。

 

若い頃に音楽を求めてコンサートに通っている頃の話です。バッハの音楽会の時はいつも特殊な雰囲気を感じていました。類は友を呼ぶということなのでしょう、特に宗教曲で合唱付きのものの時にそれは顕著で、舞台の上の人たちも客席も洗脳されてしまったかのような特殊な雰囲気を醸し出しいつも驚かされました。宗教音楽だからだったのかもしれません。器楽曲の方はそれほどではありませんでしたが、足し算やら引き算やらの計算を飽きることなくしているようで、演奏されている音楽とはいつも距離を置いて、第三者の様な感じで聞いていた様です。心に染み込んでくるというものではなく退屈になり疲れてしまうのです。バッハのピアノ曲が続くと体が硬くなっていることがよくありました。その経験からだんだんバッハのコンサートからは足が遠のいて言ったのですが、ある雨が降る冬の寒い日に友人の家族に誘われてバッハのオルガンの作品を聞きに連れて行かれたことがありました。断れない事情がありお供したのですが、巨大な音が天井からこれでもかと言わんばかりに降ってきて、金縛りにあったようで辛かったことは今でも忘れません。バッハの音楽には人の心を麻痺されるような力がある様です。

ドイツでは私のようにバッハを感じている人は少ない様です。しかし歴史に残るチェロ奏家たちの中にバッハをほとんど弾かなかった人たちがいることも知っています。

 

私は何かにつけて天邪鬼です。ただ他の人と違うことを言ったりしようと無理をしているつもりはありません。天邪鬼が自然体なのです。人類がこぞってバッハを今のように称賛さんし、聞き入っている様子を見ると、心安らかになれないものを感じるのです。バッハの音楽は今でもずいぶん社会に浸透していますが社会的にもっと深く浸透する様になるとしたら、社会は今の社会とは違ったものになってしまうに違いないと。社会が何かに金縛りにならないことを願うだけです。

 

 

悪魔の居場所

2022年10月17日

悪魔と言われているものは、そんなに悪魔らしくしているわけではないということが最近わかって来ました。身だしなみもきちんとしていて、目立つことなく普通です。むしろお洒落です。

その昔「悪魔のトリル」というヴァイオリン曲があるらしいと聞いた時、ワクワクした覚えがあります。音楽は天使系のものだと思っていたので悪魔群がどんな音楽を作るのか楽しみだったのです。

キリスト教の教会には祭壇のところが丸天井になつていて、上を見ると天使たちが楽器を持って音楽をしている姿が描かれています。この丸天井は建築的にはコーラスと呼ばれます。合唱を意味するコーラスのことで、そもそもはギリシャ語の「輪踊り(わおどり)」に由来しています。天使たちが楽器を奏でながらの輪踊りをしているのです。

京都の平等院にも天女たちが楽器を手に音楽をしている様子が描かれています。ですから、音楽と聞くと天使、天女とは結びつくと思っていたので、悪魔群が音楽をするというイメージがピンときませんでした。

この曲をラジオで偶然聞いたのですが、その時、「なんだ普通の曲ではないか」とがっかりしたというか、胸を撫で下ろした覚えがあります。おどろおどろしい音楽を想像していたからです。それ以来悪魔というのは特別なものではないことを知りました。曲の解説によると、三楽章に出てくる重音のトリルが当時にしてみると超絶的なところがあることが悪魔的と言わレル様になったらということですが、今では技巧的な曲はあまたあり、逆にそれが普通になっていますから、悪魔の活躍の場所も増えたということなのでしょうか。

 

技巧とか技術といったものは訓練でどんどん上達し、発展します。この発展、進化、向上を支援しているのはどんな力なのでしょうか。ここら辺に悪魔というのは関与しているのではないかと勘ぐりたくなります。

スポーツ競技の記録はどんどん向上しています。近代オリンピックがアテネで開催された時の100メートルは12秒でした。今は9秒58ですから、一緒に走れば30メートル近い差がつく計算になります。日本が水泳王国だった終戦後1949年に古橋廣之進選手が18分19秒という当時にしては途轍もない大記録を打ち立てこれは破られないだろうと言われたほどでしたが、今の世界記録は14分31秒02です。体操も1964年の東京オリンピックの時にはウルトラCなどいう超絶技巧が話題になりましたが、今日の体操技術はそれをはるかに凌駕しています。フィギアスケートも回転数とその技術がどんどん向上しています。

このように私たちの世界つの周りにはどんどん向上する技術的なものがある一方で、全然向上しないものもあります。ここがわかる様になったのは成人してからだいぶ経ってからのことでした。ただしこちらの方は主観的な解釈が加わるところがありますから、参考にする程度に読んでください。

中学の頃に知り合いの書家が「王羲之の蘭亭序以上のものは出ていない」ということを話してくれました。当時は、ほとんど二千年も前の人の方が字が今の人の字より上手なんてどういうことかわかりませんでしたが、今は字は心を表すものなので、がむしゃらに訓練したり鍛えたりして上手になるものではないのだと少しはわかって来ました。習字の先生に「習字をすると字が上手になりますか」と伺ったら「なりません」と即答されてほくそ笑んでしまいました。「上手になる人は元々うまいんです」ということの様です。知り合いの絵描きさんが、「絵も技巧的に上手になってくると、落とし穴があるんですよ」と言っていました。「一見上手に描けているのに目が肥えてくると絵が硬くなっているのがわかるのです」。硬い絵と柔らかい絵があるというのが新鮮でした。ただこれはオリジナルを見ないとわからないのだけどね、と付け加えていました。

ライアーの演奏もそんなところがあって、弾き手の技術が上達すると確かに上手に聞こえるのですが、どこかでライアーが嫌がっている様にも聞こえます。ライアーの超絶技巧曲なんて絶対にありえないです。このような楽器は他にないですから、ライアーは不思議な楽器だと思っています。ただこれがなかなかわかってもらえないところではありますが。

 

日本庭園を歩いていると、曲がりくねった道に不規則的に敷かれた石が敷かれてます。石の大きさもまばらで、石と石の間の距離もムラがあり、規則的に整備されていない道です。ここには一つの意図が隠されているということです。直線は悪魔が歩けるけど、曲がりくねった道は悪魔が苦手としているのというのです。バリ郊外のヴェルサイユ宮殿とかそれを真似して作られたヨーロッパ各地の庭園の作りをみると、定規で引いた様に真っ直ぐな道ばかりです。日本庭園の曲がりくねった道はしなやかさを感じるのに、西洋の庭園の道は綺麗に整ってはいるけど硬く冷たい印象があります。どこかに悪魔が座っているのでしょうか。

 

悪魔のトリルからとんでもない話になってしまいましたが、悪魔というのは私たちの敵という位置付けではない様です。とても近いところにいて、私たちの成長、人類の発展を助けているものの様に見えます。しかし成長が嫌いな悪魔もいるようで、ホッとします。

どちらも正真正銘の悪魔なので、人間とは二つの悪魔の間をブランコのように行ったり来たりしているものなのかもしれません。