2022年10月16日
動物に心があるというのは一緒に生活してみればわかります。もちろん感覚的にわかるだけで科学的根拠があるのかどうかは知りません。そこでいつも疑問に思うのは、動物には心の病というものがないのかということなのですが、猫を見ているとどうやらそんなこととは無縁に生きている様です。
しかし人間を見ると少し状況が違います。心の病がますます深刻な問題になって来ています。以前はノイローゼ、統合失調症でしたが、最近はうつ病が深く浸透して社会問題となっています。
たかが心の病では済まされないことなのです。というのは心が病んでしまうと全体に乱れが生じ人間としての行動が取れなくなってしまうのですから、家庭内で不和が生じたり、また人間関係に支障が生じたりしますし、勤め人なら会社に出勤できなくなってしまいます。一人の人間が心の病になるというのは社会的に見ると大きな損失なのです。
そんな様子を目の当たりにすると、私たちが生きている社会というのはテクノロジーが発達し、複雑に仕組まれている様でも、心が機能していることが前提とされているということに気付かされるのです。心の持つ意味は計り知れなく大きいということです。社会は心に支えられているのです。
心が崩壊してしまえば知的能力を初め、特殊技術も使えなくなってしまいますから、無用の長物ということになります。現代社会の構造の中に人間の心に逆行するような要素が含まれているではないかと勘繰ってしまいます。きっと私の主観を超えたものだと思います。都市化した社会と人間とは相性が良くないことは自分を観察してみるだけですぐわかりますから、都市化する社会に問題があることはほどほど確かな様です。ドイツでのことですが、シュタイナー学校を作ることが社会的な流行になった時期がありました。1970、80、90年代です。そこで特徴的だったのが、多くの学校が都会に集中していたことです。人口密度のこともありますが、それ以上に社会的現実に危機を感じ始めた親たちが子どもに何か違う教育的環境をと真剣に考えた結果だと思っています。自然に恵まれた環境にはシュタイナー学校はほとんど作られなかったのです。
都市化する社会は、別名合理化する社会であり、人間は社会の歯車として何かのポジションにつかされるわけです。教育はそこでうまく機能するように子どもたちを育てます。義務教育の背景にはこうした考えが息づいているはずです。
ですから心の病の原因は、人間が組織の中の機能だけで見られるようになったことへの反動だと考えたいのです。人間は機能するだけではなく、それ以上のものだと言いたいのでしょう。組織から外れると生きにくいのが今の都市化した社会です。しかし一方でそうした組織に融合できない人が増えてくる様であれば、都市化した社会の存続も実は危ぶまれているということなのかも知れません。人間は都市以外に別の生きる場所を考えなければならないのではないかということになります。
「心というのはなぁ、大昔、地球を取り巻く精妙な大気が長い時間をかけて凝縮して出来たものだ」と聞いたことがあります。どちらも「気」で、天気と元気に別れたのです。
そう思えたらちょっと元気になりました。
2022年10月12日
最近よく聞く音楽はハイドンとシューベルトです。
正直にいうと、これは最近のことなどではなく、今までもずっとこの二人の作品は聞いていましたし、きっとこれからもずっと聞き続けるだろうと思っています。
今日は大好きなハイドンのことを書いてみます。
彼の初期のシンフォニーを初めて聞いたときの新鮮な驚きは今でも忘れられません。それは6番と7番でした。それまではシンフォニーといえばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーといった重っ苦しいシンフォニーばかりでした。
ハイドンの一桁の番号のシンフォニーは別世界のものでした。「今さっき生まれたばかりなのではないか」と思ったほどでした。それは赤ちゃんの笑い顔に癒されるような微笑ましい驚きで、音楽でこんなことが起こるのが不思議でなりませんでした。そして「なぜこういう音楽がちゃんと評価されないのだろうか」と、それ以来ずっとハイドンの味方なのです。
ハイドンの6番、7番はモーツァルトの若い時の作品の方が年齢的にはずっと若いのですが、どこかに憂鬱的な翳りを引きずっています。これはヨーロッパ音楽の中にいつの頃からか入り込んできてしまったものです。私はドイツのバロック音楽に起因していると思っています。
ドイツバロックを代表するバッハの死後もヨーロッパ音楽はバッハの亡霊に取り憑かれたままでいましたから、そうした環境の中でハイドンの様な音楽家が生まれたことは一つの奇跡です。
ハイドンは三十年もの間ハンガリーの貴族、エスタハージー侯爵のお抱え音楽師でしたから、今日いうような芸術家というタイプではなかったはずです。どちらかといえば公爵のお城から出たことがない閉鎖的な職人音楽師だったのでした。
料理人に例えればグルメの人たちが通う様な高級レストランのシェフの作る奇抜な料理ではありません。かと言って場末の食堂というのとも違います。唯一つ例えられるのは「まかない料理人」です。いつもシンプルでとっても美味しい料理を仲間たちに作る人です。食材も知り合いの農園で採れたもので、気心の知れた料理で。いつも食べられる、懐かしい料理です。また食べたくなる様な味で、私はそれが家庭料とならぶ料理の原点だと思っています。食べていてホッとする料理の様にハイドンの音楽にはホッとするものがあります。
先ほど言いました「今さっき生まれたばかりの様な音楽」というのは普通は音楽体験としては話題にならないものです。そんなことより哲学的な、あるいは政治的な難しいこと、高尚なことを話題にする方が好まれるからです。音楽も難しいものになってしまいました。そしてそうした一般好みのテーマで音楽を語っているとハイドンの存在は指の間から水がこぼれてしまうように消えてしまいます。
ハイドンは大仰な振る舞いが似合わない人です。ここで共通していると思うのがシューベルトです。二人とも難しいことには縁のないのです。私が二人の音楽を好んで聞くのは大仰な言葉に満ち溢れている空間から僅かの間離れて居られるからです。
2022年10月11日
独学について考えてみました。うまくまとまらないのですが、公開します。
私が独学でやったものといえばギターです。テレビのギター教室を通しての見よう見まねはありましたが、先生について習ったことがないという意味では独学です。唯一の先生はコンサートでした。
ライアーも指使い程度の手解きを受けただけであとは一人で模索しましたから独学です。ライアーが長いこと好きになれなかったので、ゼミナールの時の人たちとの合奏などは避けていていました。紆余曲折があってやっとの思いで迷路から這い出したものです。自分が納得できる音がようやく出るようになってからは弾く時間が増え。楽しめる様になり少しは上達しました。ただ手本がないというのは強みであり弱みでもありますから、何度も挫折しそうになりました。しょうがありません。独学はここがネックです。持続できれば独学はかえって味のある習得法だと思うので、人には勧めるのですが、やはり持続がネックです。
独学は癖との戦いだという印象がありまずか、独学だけが癖と戦っているわけではないと思います。先生についていても、真面目に、しかもがむしゃらに練習をする人たちが悪い癖を練習で身につけることがあります。意外かもしれませんが結構多いのです。ということは癖というのは独学に付き纏っているだけでなくどこにでもついて回るものだということの様です。独学の場合は直してくれる人がいないので癖丸出しのものになりがちですが、先生についている場合でも頑固な人は先生が直そうとしても直らないほどの癖の塊だったりします。癖は浄化されて個性的と言われるほどのものにはなかなか到達しないものです。
なぜ独学のことを思ったのかというと、教育の中で独学はどのような位置づけにあるのかを整理したかったのです。私は今はまさに根本的に教育を考え直す時期にきていると思っています。というのは今日の教育は楽器のお稽古に行く様なお行儀のいいところがあって独創的な子どもを育てるとか、想像力を育成するとかいう立派な宣伝文句はあっても、広い目で見れば社会に役に立つ人材を作るのが目的だと思っています。ですから、効率が良く合理的なものになってしまって、そこに独学の様な学び方を導入する余地があるのかどうかということです。仮に導入するとなると途端に今までの教育のバランスが崩れそうな気がするのです。
独学は非合理的です。時間もかかり過ぎます。試行錯誤の連続で何をやっているのか側から見るとわからないわけです。側からは無駄ばかりが目立ちます。とてもじゃないですが、今日の教育の通念には当てはまらないものといえそうです。
独学に向くタイプとそうでないタイプがいると思います。独学に向きそうな人を見ると気骨のあるタイプで簡単に社会に順応するタイプの人ではなさそうです。今日のように昼は学校夜は塾と「教育」が満遍なく行き渡ってしまうと独学の居場所は見つけにくくなりますが、私はどんなに教育が社会に浸透しても独学という「秘密の空間」を奪い取ることはできないと思っています。独学は教育とはレベルが違う所にあるものだからです。ここが大きなポイントです。
教育は産業革命以降社会のために役立つ人間を育てることに翻弄してきたので教育で天才を育てることはできないでしょう。世の中の天才と呼ばれる人たちは、例え先生についたとしても、すぐに先生を超えてしまいますから、結局は独学の道しか残されていないのです。
それともう一つ大事なことは、独学には「ぼんやり考えること」が必要だということです。独学は束縛されずに夢見ながら進んでゆくものです。誰からも強制されないでいられる時間と空間が必要です。お節介な先生たちはそんな子どもを放っておくことはしないので独学系の子どもたちは学校へ行かなくなってしまうのかもしれません。
世界を引っ張ってきた人たちの多くは、独学の人たちの様です。先人たちの教えとは違った、前例のないことをする勇気と発想が求められているからです。もちろん温故知新も一つの真実でしょうが、誰も知らない境地を行くには独学に許される「ぼんやりと考えること」から生まれる奇想天外な発想が必要なのではないのでしょうか。
独学はお行儀の悪い学び方の様です。