固有名詞の限界

2022年10月10日

人間一人で生きてゆくことはできないですから社会生活を営みます。その社会生活にはいつも問題が山積みしています。犬も歩けば棒に当たるではなく、人間が三人いるとそこにはしっかり問題が生じるようです。

そこで問題解決のために会議のようなことをするわけですが、そこでいつも気になるのが問題が起こった時に、「何々さんが」という具合に固有名詞にかこつけて問題を提示することです。誰かのせいにすると言ってもいいかもしれません。私が困ったものだと考えるのは、その固有名詞が大事なのか、それとも出てきていると問題を解決する方が大事なのかがわからない時です。問題解決ではなく、固有名詞で喧嘩しているような状況にも度々出くわしています。本末転倒です。

少人数の小さな集まりでもそうですが、世界情勢を見ていても、「誰々が」というのが主流で、問題解決の本質的な話はされないのです。あるいは問題の核心を隠すためにわざわざ固有名詞を振り回しているのではないかと思うこともあります。問題の核心を明らかにしないと、ダメだと言いたいのです。核心は円の中心です。そしていつもしつこく登場する固有名詞は円周に例えられますから、固有名詞で討論している間は円周をぐるぐる回っているだけで、問題の核心には辿り着かないことがほとんどなのです。

日本だけの問題ではなく、私がドイツで経験したことでもあるので、多分人間の性と言ってもいいのかもしれません。しかしここのところをクリアーしないと、問題はある人物になすりつけられるだけで、解決ではないですから、またしばらくすると別の固有名詞を使ってその問題は噴き出してきます。

 

ではどうやったら固有名詞ではない討論ができるようになるのかということですが、そこに数学的なセンスが大いに役立つのです。数学的に整理するということです。数学なんて大袈裟なことを言わなくて小学校高学年の算数レベルでも十分なのですが、固有名詞を脱却するには数学的な整理の仕方を身につけることをお勧めします。

 

 

現代芸術の奇抜性、醜いという美。

2022年10月6日

音楽と雑音は別のものと思いきやその区別は厳密なものではないようです。区別がつけられそうで、いざやってみると簡単ではなく、特にクラシック音楽の中の現代音楽(この矛盾した言い方からして奇抜です)に至っては雑音を音楽そのものとして音楽の領域に引き摺り込んでくるので、ほとんど区別し難いのが現状です。日本伝統の音楽は好んで弦を擦ったり、尺八の空気の流れをこわして雑音を故意に作り出す技法がありますが、音楽と雑音の調和が取れています。

ところが軽音楽、ポピュラー音楽、ジャズやロック、日本の歌謡曲などをみてると、奇抜な、斬新なことが起こらなくもないですが、はめを外すとジャンル超えになるからでしょうか、たとえそのようなことが起こりそうでもそこには節度があり、ほとんどがジャンルの掟に従ってそのままの形を維持するようです。

もちろん一人ジャンルと呼んでいいような独自の歌の世界を作っている人も稀ですがいます。大変な才能に恵まれているのだと思いますが、後継者が出て来ないのが特徴です。

ではなぜクラシック音楽の現代音楽と呼ばれるジャンルは数多の音楽のなかでも突飛押しでないことに関して抜きん出ているのでしょう。ピアノをハンマーで叩き壊したり、4分33秒の間ピアノの前に演奏するのではなく、時計を見て正確に4分33秒を測るために座っていたりと、音楽の域を超えた突飛押しなものが生まれるのでしょう。

音楽だけでなくアートの世界でもよく似た現象が見られますし、ファッションにも共通項がありそうです。敗れたジーパンに継ぎ当てもしないできるのです。芸術性が高いと訳がわからなくなります。

食べ物は違います。不味いものを美味しいとは言わない頑固さがあります。それは食べ物が日常に結びついているからです。グルメという特殊な食文化からは突飛押しのない食べ物が出されますが、不味いものを美味しいという人はいません。

ここでキーポイントになるのは日常という概念です。

今見た現象の特徴は日常からかけ離れていることです。すっかり非日常的です。しかしよく考えてみると芸術というものにはそもそも日常からかけ離れたところを目指す衝動が内在していると言えるのですから、何も不思議なことではないのです。

 

限りなく美しい天井的な音楽を聞いているときはうっとりして日常とはかけ離れたところにいますし、あまりに美しい絵のまえでは時空が消えてしまいます。彫刻でも建築でも同じことが言えるわけです。限りなく美しい方に非日常が傾いた時代があったと言っていいのかもしれません。その一方で限りなく、醜い、美しくない非日常を目指す時代もあるのです。もちろん現代の芸術は醜い非日常を目指しています。醜悪なものの中に美を見つけようとしているので、芸術性が高まれば高まるほど醜くなるというわけです。なんとなく思春期の成長期に見られるような社会との摩擦に似ているといえば似ているような気もしますが、醜いものに対しての理解という点では大人です。

 

一体芸術の高みはこの先どこまで醜くなってゆくのでしょうか。

 

 

不純物

2022年9月29日

唐突な話ですが、シュトゥットガルトの飲み水はボーデン湖、ドイツとスイスにまたがる大きな湖、から200キロほどをパイプで送られれています。スイスとイタリアが隣接する所で湧き出した水は、ライン川となってボーデン湖に流れ込み、そこで水は厳しい水質検査を経て飲み水の基準を満たしシュトゥットガルトに送られます。ボーデン湖の水がシュトゥットガルトに送られるようになってからは水質が以前と比べものにならないほど良くなったということです。現在では水面から50センチ下はすでに飲んでも大丈夫と言われるほどです。河川が汚され、ボーデン湖の水も匂いがするほどだった昔を知る人にとっては信じられないような話しです。当時は、自然保護の人たちが躍起になって河川汚染と戦っても達成することができなかったことが、シュトゥットガルトに水を供給するということだけで、まるで魔法にかけたように汚れた水が飲み水にまで浄化されてしまったのです。

この話には信じ難い側面があったのです。

さて水が綺麗になって、その清らかな水の中をスイスイとお魚たちが泳ぐと思いきやそんなことは起こりませんでした。却って魚は大きなダメージを受けたのでした。水が綺麗になったということは水の中の不純物(プランクトンを含め)が少なくなってしまいました。喜ばしい水質の向上の一方で悲鳴を上げたのはボーデン湖の漁師たちでした。昔は3・40センチくらいになった魚が今は10センチ15センチの大きさにしかならないとぼやいているのです。15年前、ボーデン湖のコンスタンツでゲルトナーライアー80周年の記念式典の際に100年前の蒸気船で湖を回りながらライアーを聞くという催しが企画されました。生憎天候が不純でライアー演奏はありませんでしたが。その時隣り合わせた方がボーデン湖で漁師をされているということで、珍しい出会いにおしゃべり好きな私は根掘り葉掘りと失礼を承知で訪ねました。その中で聞いた話が、ボーデン湖の漁師の人たちの悲鳴でした。「飲み水もいいが、魚のことも考えてもらわないと、10センチの魚なんて食べても上手くないからな、売り物にはならないのだよ」。まさに水清くして不魚住ずのボーデン湖版だとこの話を聞いていました。同時に何が自然保護なのかも考えてしまいました。

不純物が大活躍していることを初めて知ったのはファラディーの「ろうそくの話」を読んだときでした。「蝋燭が明るく燃えるのは煤(すす)があるから」と言う下りでした。実際に人差し指でろうそくの炎を通すと瞬時に指に煤がまとわりついてきます。ガスバーナーで実験すると、炎は温度が高くなるにつれて不純物がなくなり透明に近くなって見えなくなってしまいます。それでは周囲を明るくすることはできません。煤、万歳、でした。

 

私はまだ不純物にすらなれていないようです。