河鍋暁斎の展覧会

2022年9月21日

江戸から明治にかけて活躍した河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)の版画を見てきました。ドイツから招聘されたベルツ博士が彼の主治医で、しかも二人は非常に親しい間柄であったので沢山の暁斎の版画がベルツ博士によって海を渡ったのでした。

彼の作品に接したのは今回が二度目です。展覧会では大小混ぜると七十枚は越す量の版画を見ることができました。明治の初めはスター的存在だった暁斎ですが、今日では葛飾北斎や喜多川歌麿や伊藤若冲ほどポピュラーではありませんから知る人ぞ知る画家です。江戸から明治にかけて活躍したという版画の世界では珍しい時代環境を背景に持っています。珍しいことにイギリスから建築家として招聘され、たくさんの建築物を残したジョサイア・コンドルが彼に弟子入りしています。

とても充実した見応えのある展覧会でした。

今回の版画を通して気づいたのは暁斎の日常への愛でした。日常を多彩に観察する眼力です。ここは葛飾北斎にもあります。北斎漫画はそのいい例です。暁斎の豊かな表情付けと的確な描写は見ていてほくそ笑んでしまいます。もちろん至る所に美が輝いています。特に得意な魔性との対話を描き上げる暁斎の悪戯心は圧巻です。題材は奇想天外なものが多いのですが、それなのに表現に誇張がないため素直に楽しめます。絵の主人公たちがすぐそばにいるような感じさせるのは彼の絵画的力量とセンスのなせる技だと思っています。そして何よりも彼は絵が大好きなのです。それがどの絵からも伝わってくるのも今回の収穫でした。

 

ドイツの小さな町ビーティヒハイム、シュトゥットガルトから北に向かって車で30分ほど走ったところの町に暁斎の主治医ベルツ博士は生まれました。エルヴィン・フォン・ベルツという明治の初頭に日本に招聘されたドイツの医者がこの小さな町の出身だという縁から、暁斎の展覧会が開かれることになったのです。

ベルツ博士のことはドイツよりも日本で有名です。「ベルツの日記」が岩波文庫で出ていて、私も若い頃に読んだ記憶があります。29年の長きに渡って大学で教鞭を取り、日本女性と結婚していたことで、日本文化に深く触れることになり、河鍋暁斎と個人的な出会いあって主治医となり、さらに友人として意気投合して彼の版画を集めたのでした。花夫人と二人の子どもと一緒にドイツに帰る際、博士は全ての絵を持って帰りましが、死後売られ人手に渡ってしまいました。ところがその買主の好意で、生まれ故郷で展覧会が定期的に開催されるのです。いつも入場は無料です。

展示されていた作品の数はもしかすると百を超えていたかもしれません。

河鍋暁斎の腕は大変なものです。当時すでに有名人だった彼の作風は奇想天外なものまで、全てが遊び心から生まれ他ものです。明治に入って西洋精神に触れたことは大きいに違いありません。こういう画家は彼以前には見られませんでした。

一般には奇想天外という言葉が当てはめられますが、ただ奇想天外と呼んでいたのでは、暁斎の本意に到達しないと思います。また世の中を風刺したと捉えられるものもありますが、社会風刺などという陳腐なレベルを脱していて、人間存在を楽しんでいるのです。ユーモアという普通では手に負えない領域からの遊び心が絵になったのです。

暁斎が描くような独特の余裕は、絵画という世界が得意です。音楽ではなかなか表現できないものですが、彼の絵の前に立って見ているときには、グスタフ・マーラーの音楽が私の耳の中で聞こえてきました。

二人に何か共通するものがあるのでしょうか。

 

お隣さんヴェラーさんの死。人付き合いは80パーセントがきれいだ。

2022年9月14日

一昨日道を隔て真向かいの、今年六十八歳になる女性、ヴェラーさんが亡くなりました。

一年半ほどがんの治療をしてるのではないかとうち内で察していましたが、本人からはもちろんご家族の方からも何も聞かれされていなかったので、ただ早く良くなってほしいと願うばかりでしたが、ついにその時が来てしまいました。

五月にお嬢さんにお子さんが産まれ、道で会ったときに、初孫の誕生を本当に嬉しそうにお話しされていました。亡くなる二日前に息子さんからも、博士になったという知らせを受け取っていましたから、お子さんたちの将来をも見届けて天国に行かれたのでした。

ヴェラーさんは女医さんで、つい二ヶ月前にお仕事に向かうときにお目にかかったのが、今思うと直接話ができた最後でした。いつお目にかかっても、気さくに挨拶を交わすことのできる方で、通行する車に気をつけながら、彼女の姿を見ると必ず彼女の方に駆け寄り握手をして、二言三言でしたが話をしたものです。彼女を目にすると、自然と近づきたくなる気持ちが起こるのです。

 

ヴェラーさんが亡くなられて、自分がこんなに深い悲しみに陥るとは考えても見ませんでした。

私より若いし、いつも向かいの玄関から笑顔で出てくるのが当たり前でしたから、ヴェーラーさんがいなくなるなんて想像もしなかったことです。

それにヴェラーさんとのお付き合いは、ご近所さんでもべったりの付き合いにならず、会えば必ず挨拶をするだけの一番自然なものでした。彼女の個人的な悩みなど知る由もなく、時々目にする親戚付き合いの他は、たくさんのお知り合いの方は目にして、特に親しくしている友人がいるとは思えませんでした。

ヴェラーさんはどこかに孤独を漂わせている方でもありましたが、それがヴェラーさんに影を落としている様子は見受けられませんでした。逆にそこから凛とした気品が生まれていたと思っています。とても働き者で、「私は不器用だから」と言いながらも何でもする方で、そうしている姿が一番彼女らしい姿でした。亡くなる二ヶ月前にまだ女医さんとしてお仕事をされていました。さすがそのときににお話をしたときには声に力がなく、それが私の心配の種でしたが、病気はすでに相当進行していたようで、本人は医者ですから、自分の命のことは誰よりも知っていたのでしょう、最後の力を振り絞ってお仕事を続けてたのでした。

私の住んでいる向こう両隣10世帯は毎年一回ご近所会と称し飲み食い会をしています。小さな子どももいますからせいぜいグリルパーティー程度のものです。妻が二ヶ月前にヴェーラさんに会った時の第一声が「今度のご近所会は誰の担当」と心配そうに聞いていたそうで、「私がやってもいいわよ」といつもの調子で、何でも引き受けてしまいそうな勢いだったそうです。

八月に息子が結婚したときにも、きれいな真っ白な花束を届けるように息子さんに言いつけ、「母からです」と息子さんがうちの息子夫婦に届けてくれました。

 

彼女が亡くなったことを知ったお隣さんが、夜遅く訪ねてきて、涙ながらに「ヴェラーがいってしまった」と泣き崩れました。彼女がご近所の中では隣り合わせということもあって一番長く親しく付き合いがあったので、悲しみは本当に大きかったのだと思います。その彼女ですから一ヶ月前までは、入院しているヴェラーは胃の手術をしたらしいという程度の情報しか持っていなかったのです。

ヴェラーさんの病気のことを知っていたとしても何もできないわけです。私たちも何をしてあげたらいいのかわからず、玄関先に花を届ける程度しかしませんでした。

 

息子さんは雪の研究をしていて、六年前に東大で半年研究室にいたことがあり、我が家の菩提寺が谷中(上野・日暮里・根津)だったので一緒にお墓参りをしたり、母が住んでいた逗子にも遊びに来たりとしたことが縁で、ヴェーラーさんとはそれ以降、以前よりも一層親しくなった気がします。

 

ヴェラーさんに会うときに感じるのは、いつもとても気持ちのいい距離感でした。清潔な距離感と言いたくなるものです。親しくても深入りせず、自分は自分、他人は他人。それでもいつも笑顔で人には接する。今思うとヴェラーさんはそれをしっかりと実践していたのだと思います。それなのに、いやそれだからこそ、彼女が亡くなった後の悲しみが大きいのだと思います。気持ちのいいお付き合いとはこんなに貴重なものなのだと感じでいます。

今年の二月に母を亡くした時の悲しみとは違うものですが、彼女と人生の一コマを共有できたことが今は本当に嬉しく、その嬉しさの裏返の悲しみが大きく、こうして文章にしてしまいました。

 

読んでいただいてありがとうございました。

合掌

 

 

 

いつも何かを考えている

2022年9月14日

「人間は考える葦」。フランスの思想家、ジャンジャック・ルソーは、人間というのは水辺の葦のよう風に吹かれて揺れ動いている頼りない存在に見えるが、考えるという偉大な能力を持っている存在と考えたのでしょう。考えるということを賛美している言葉です。

私自身を見ても確かに考える存在で(大したことは考えていませんが)、四六時中、何だかんだと考えていているようです。実際に人間を脳波で調べると、ぼんやりしている時でも、何かを考えていることが明らかにされています。

昨今は、考えるということが、コンピューターの出現でその意味合いがずいぶんと変わってきていますから、「コンピュータも自分で考えられるのか」といった類のことの方に興味が移行しているのではないかと思います。ただ、たとえコンピューターの分布図が広がっても、「考えるとは何か」に答えるのは途轍もなく難解なもので、日常生活から離れた、形而上的な世界なので、哲学とか論理学とか学問として向かい合うものとなっていますが、そこでは往々にして硬直したものになってしまうような気がします。しかも深い迷路が待ち構えていますから、そこに迷い込んでしまうもので、不幸な結末で生涯を閉じる哲学者も多いのです。コンピューターはこの危険性がない思考生活を営んでいると言ってもいいのかもしれません。今のところ人間からの問いに従順に答えることで目一杯なのかもしれません。

 

考がえるというのはそもそもは頭のいい人の得意技ということになっています。その頭がいいというのか、知的傾向にある人は勉強好きで、成績の良い生徒だったはずです。一方体を動かすのが好きな人は思考型人間ではないようです。

頭のいい人は頭の中で運動しているので、体全体を使った運動が苦手なのかもしれません。もちろん両方得意という例外も、両方とも苦手という例外も存在します。

体を動かしている時は、私の経験から、考えていないのだというふうに結論して見ようと思います。逆に頭で考えている時には体はコントロールできないものです。例えば階段を降りるときに「階段を降りるのに足をどう動かしたらいいか」なんて考えながら降りていったら、間違いなく途中で足を踏み外します。つまり考えるという行為は頭の中を動かすのであって、体を動かすことの対極だということのようです。

世界で一番足の速い人は誰かとか、高く飛ぶ人はとか、遠くに投げる人、早く泳ぐ人とか、スポーツの世界では記録が出るので比べられますが、世界で一番考えた人は誰かという質問には、簡単に答えはないのです。測定しようがないからです。それでも会えて上げようとすると、歴史上の著名な哲学者たちが挙げられるのでしょうが、その人たちにしてもスポーツのように考えた量が記録されていないので、数値で表される共通の見解には至らないものです。

主観的に、私の個人的な好みで敢えて挙げるとすれば、神学大全の著者トーマス・アクィナスを挙げます。考えた功績で聖人として崇められている稀有な人です。私は歴史上の考えた人たちの中で一番自然に、柔軟に考えているところが魅力でトーマス・アクィナスを挙げたのですが、他の考えの人もいるでしょうから、特にゴリ押しをする積もりはありませんし、そのことで論議するつもりはありません。彼は何かを結論づけようとしたり、思想を構築しようとしたり、論理を証明するような意図を持たず、「ただただ考えた人」というシンプルな思想家です。実はこれがとても難しいのです。

たくさんの人にもっと読んでもらいたい人なのですが、カソリックのお坊さんなので聖書を基本にしているので、宗教色が濃いのではないかという先入観が強く、今の時代には取っ付きにくいものなのかもしれません。ただこういう本が書かれたということを知るだけでも、人生が変わると思います。ちなみに神学大全は神学への入門書という位置づけですから、もしトーマスが本気で上級者へのものを書いていたらどんなことになっていたのだろうと考えたこともありましたが、実際には、どんな分野にも共通しているのは、初心者や入門者に物を教える方が上級者に教える何倍も難しいことなので、入門書の神学大全がトーマスのライフワークだったのかもしれません。

 

少し視点を変えてみようと思います。

一昔前までは考えるのは地上で人間だけだと相場が決まっていました。ところが考えるというのをもっと広義に捉える風潮が最近は主流です。考えているのは人間だけでなく動物も考えているという時代ですし、さらに、植物も考えているということが知られるようになっていますから、考えるというのは人間にだけ備わった特殊能力ではないということのようです。もしかしたら近々石や鉱物、金属までも考えているなんていうことになるのかもしれません。そして見ると、考えるというのは、道具と見るより、呼吸のような根本的な生命活動に伴う営みと捉える方が自然な気がしてきます。大自然もよくよく見れば考えているのかもしれません。もちろん宇宙もです。

 

最後に、人間の思考にはそんな中で少し特殊なものがあると思うので、人間の思考について整理したいと思います。

人間はこの考えるという能力を善用したり、悪用したりできるということです。ここがおそらく人間的な思考の特徴です。なぜか人間はこの二面性を持つようになってしまったのです。

そこには言葉から大きな影響を受けてしまったことがあるように思えて仕方がありません。

言葉抜きで考えられる人は稀で、ほとんどの人が言葉で考えていると思います。それどころか大半が言葉から思考につなげているのではないのでしょうか。ごく稀に、ずば抜けた思考力の持ち主が言葉に頼らず純粋に思考しているように思います。それはほとんど思考を超えた直感・直覚の領域のこととして語ることになるので、今回はパスします。

一つだけ言っておきたいのは言葉を過信するのは危険だということです。

言葉の大切な働きの一つはご存知の通りコミュニケーションです。言葉はコミュニケーションを多彩にします。しかしコミュニケーションは言葉が全てではないことも知っておく必要があります。

言葉は他に、ものの意味を明らかにしようとしているのだと思います。変な言い方ですが、もともと存在するものは、自然も宇宙も全て意味を持っているわけですから、その意味を見つけたり感じ取ったりすることは全ての存在に備わっている能力だと思うのです。ところが、今の私たちの手に負えるものではないので大抵はその能力を十把一絡げに本能という言い方で片付けてしまっています。人間はそこで見つけた意味を言葉化することができます。実はこの能力ありがたいようで迷惑なものなのかもしれないのです。

言葉は人間社会の中で発展するうちに、巨大化し人間を奴隷化するほどになったと言えます。人間が言葉を使っていると思っている人が多いのでしょうが、私は、特に最近は、人間は言葉に振り回されているとのだと感じています。言葉は人間が統御できるものではなくなってしまったようなのです。逆に言葉が人間の思考を思うままに動かしているのが現状です。

そこから脱却しなければなりません。そのためにいま一番要求されているのは自分で使っている言葉がどんな意味をもち、どんな影響力を持っているのか知らなければならないのです。その訓練を積むことで言葉を支配するという感触が見えてきます。

解放されないと言葉によるプロパガンダ、洗脳に振り回され、これからも隷属状態が続くことでしょう。