2025年5月12日
昨日また一つ年をとりました。昭和二十四年に、満年齢で年を数えることが始まったそうです。それまでは数え年でしたから、みんな一斉に一月一日の元旦に年を重ねたものでした。
誕生日を祝うということにドイツで初めて出会った気がします。我が家では誕生日を祝う習慣がなかったので、ドイツで盛大に誕生日を祝っているのを目にして始めは少々違和感があったものです。
誕生日を祝うということは無かったにもかかわらず、不思議と誕生日にプレゼントをもらったことは覚えています。何だったのかは忘れましたが、まだ日本が高度成長に入る前でしたから、貧しい時代で、大したものでは無かったはずです。
いまドイツで友人たちの誕生日に呼ばれると一番悩むのがプレゼントに何を持ってゆくかです。ものの溢れた時代ですからみんな大抵の物は持っているので、何か変わったものをと考えてもなかなか見つかりません。私だけでなく多くの人の悩みのようで、最近はプレゼントに選んだらいいものを商品にするお店が登場して、なかなか繁盛しているようなのです。そこで買って「はいプレゼントです」と持っていっても心がこもっていないようで、納得できずにいるのでお店の力を借りずに何かを探そうと努力していますが、案外難しいものです。
プレゼントというのはプレゼンテーションのようなもので、自分を表すことですから、プレゼントをあげて喜んでもらおうとしているのだと思います。これが政治的なものとして利用されると賄賂のようなものにつながるのでしょう。
昔のドイツではプレゼントには自分で作ったものを贈っていたものだと聞いたことがあります。ドイツはそもそももの作りのお国柄ですから、手仕事で作ったものを贈るのが一番心のこもったものと認識されていたのでしょう。それが今の消費文化のなかで買ったものをプレゼントするというのが定着してしまったようです。むしろそっちの方が商品価値が読めて好まれているようです。ちょっと有名なワインでも贈っておけば用が足りてしまうということのようです。
ものを作ることから離れると文化はますます個人という基本が失われ、一般化してゆき薄っぺらなものになってしまうような気がします。手間暇かける時間などないというのが現実なのでしょう。
2025年5月11日
娘がシュトゥットガルトの放送局でオーケストラのマネージメントに携わっている関係で定期公演の年間チケットで毎月コンサートに足を運んでいるのですが、どうも最近は感動することが少ないように感じるのです。昨日もオーケストラの音楽を聴きながら、原因が私にあるのか、それともコンサートという形式にあるのか、それとも音楽そのものにあるのかを考えてしまいました。
特に昨日の演目はとても偏っていて、今も生きている現代作曲家のものが三つのあとにドビッシーの海でした。現代音楽に偏見を持っているわけではないと思うのですが、聞く度に「何を伝えたいと思っているのだろうか」ということが脳裏を掠めるのです。音楽はその時代を如実に反映している物だと思っているので、現代音楽は現代という事態を反映している物なので、現代という混沌とした時代そのものだと言って仕舞えば、全く時代を反映している音楽として評価すべきものと言えます。
しかしそれだけでは芸術というものの役割の半分しか果たしていないように思うのです。芸術は時代を反映していると同時に未来を指向するところにその存在意義があるので、その意味で言うと、現代音楽は今の混沌を反映しながら、そこに未来を暗示するものがあってほしいのです。こんな時代に未来なんかないと行って仕舞えば身も蓋もないのですが、それは一般論で、芸術家であると自負するならば、それでも未来が暗示できる人であってほしいのです。時代を反映しているだけであれば、自分に翻弄され漂っているだけなので、そんなのは目の前にあるのであらためて音楽で聴くこともないのです。
今回の演奏会を通して強く感じたのは、現代音楽というのはとても知的なものだと言うことでした。終始感じていたのは知性の産物だということでした。それは現代人の思考というものがもっぱら知性からのものに頼っているのと見事にシンクロしていたのです。そこに気づけたことが今回の音楽会の一番の贈り物です。
思考というのは、私の感じるところでは、知性を超えているものなのです。知性が思考を操ると、思考は知性が好む辻褄の合ったもの、論理的なもの、合理的なもの、証明できるものに陥ってしまいます。理屈にあっていることが思考の中心に居座ってしまうのです。思考はそんなつまらないものではなくて、もっと大きなところから力から力をもらって羽ばたいているものなので、辻褄が合わなくても良しと言えるものなのです。
思考は、想像力、直感、直覚から流れ込んでくるものから成り立っているものだと私は信じています。ですから辻褄というものや、証明という手続きに捉われないで、矛盾したものを含んでいて当然なのです。思考が辻褄合わせや証明することに囚われていたら、結果は明瞭です。窒息してしまいます。未来に向かって思考し始めるとそこには可能性というものの中でものが展開されてゆくことになります。未来は可能性ですから、未だわからない未知なるものであって、分かるということだけではなく、分からないこともそこには当然居場所があるのです。
今回、三っの現代音楽を聴いていて脳裏を掠めたのは次のようなイメージでした。もし大都会の全部の道路が行き止まりになってしまったら、というものでした。道路は次へ次へとつないでいるものなのに、どこかで行き止まりになってしまうと、向かう次が閉ざされてしまい立ち往生の状態になります。昨日聞いた音楽はまさに立ち往生状態でした。次に行く道が見つからないのです。ヒステリーになったり、落ち込んでしまったりの繰り返しで先が見えないのです。現代音楽が時代を反映しているものだとすれば、今思考が知性に振り回された結果、思考の道が行き止まりになっていることを警告しているのかもしれません。このままでは思考が危ない、窒息してしまう。思考を救わなければと身をもって音楽を通して言っているのかもしれません。ただ今は残念ながらまだ警告で終わっているようです。
2025年5月8日
AIにお伺いを立てることは今や常識になっています。それが有効な手段であることはいろいろな分野で証明されているわけです。膨大な経験値は一人の人間の経験を遥かに超えたものなので、情報量からすれば一人の人間が太刀打ちできるものではないのです。
しかしそのAIにできないことというのもあるはずだと考えていて思いついたのが、恋文、つまりラブレターです。
最近は出会いのアプリケーション、マッチングアプリというものでパートナー探しをする人が増えています。私の周りにも何組がのカップルがそのアプリで知り合ってめでたく結婚というゴールにたどり着いています。私の周りを見る限りでは、それらのカップルはみんな幸せになっているようですから、さがAIの情報処理の能力の高さが窺い知れます。
私の母方の祖父母はお仲人さんをよくしていたと母からよく聞貸されていました。母に言わせると、縁を結び付ける才能があったということですが、結婚にまでたどり着くのは、好き嫌い、惚れた腫れたの恋愛とは違って、絆のような縁によって結ばれていると感じることが多いです。最近は、日本だけでなく世界共通の現象として、若い人が結婚しない傾向にあるようです。となると老婆心から恋愛の方も消極的なのかと心配になります。若い人には「命みじかし、恋せよ少女」ではないですがたくさん恋をして欲しいものです。
昔は恋を打ち明けるのに手紙を書いたのです。ラブレターというのは恋に落ちてしまった人が、そのお相手さんに向けて、思いのうちを情熱的に綴る手紙です。いろいろな手紙がありますが、人生で一番思い出に残る手紙かもしれません。今のご時世からすると、きつとラブレターなんかも書かないで人生を終わってしまう人が増えているのかもしれません。しかし人を恋するということが時代によって増えたり減ったりするというのは考えに食いものです。そんな中でも、ふと恋に落ちてしまったら、手紙にこだわらずにメールでもいいのですが、思いを文章にして綴ろうと思ったりするわけです。しかし手紙も書き慣れていないわけですから、恋に落ちたからといって突然文章が書けるようになるわけではないので、悩んでしまいます。そこで助っ人にAIが登場するのでしょうが、果たしてAIにラブレターなるものが書けるのかどうかは難しいところです。それでもこちらからこのように書いて欲しいという希望をはっきり示せばなんとかやってくれそうな気がするのですが、その文章をお相手さんが読んで、どう感じるのかは、私には想像がつかない世界です。
ラブレターは一般論ではダメなわけです。「あなたのような方はきつとたくさんの人から好かれていらっしゃるのでしようね」、なんて書かれてもお相手さんは嬉しくもなんともないはずです。恋に落ちてしまった一人の人と、好かれてしまった人との初めての、そしてもしかしたら最初で最後の手紙かもしれないのですから、極めて主観的な面を打ち出し「あなたは私の太陽だ」的な大袈裟なことを恥じらいを含めて堂々と書くのがラブレターのはずです。
私は一度しかラブレターを書いたことがない上、その恋は実らなかったですから、ラブレターの失敗作しか書いていないということになり、偉そうなことは言えないのですが、これからラブレターを描こうと思っていらしゃる方にはぜひ成功作を書いて欲しいと物だと願っています。ですから、AIにどのようなラブレターにしたいのかの意向を、詳しく具体的に伝えられないとダメなわけですから、しっかりと自分の気持ちを整理して、しかも相手がどのような受け取り方をする人なのかも、わかる範囲で伝えれば、とりあえずはラブレターにはなると思います。
私はラブレターをもらったことがないので、ライブレターの効用というのか威力に関してはよくは理解していませんから、ただ正直な思いを伝えることを努力すればいいラプレターになるようになると素朴に感じています。
さて実践的にということで、練習のために、まずは自分に向けてのラブレターをAIに作ってもらってはいかがでしょうか。自分だったらこんなラブレターが欲しいとAIに伝えて、架空のお相手さんに、自分向けてのラブレターをAIに書いてもらうのです。それを自分で読んでグッとくるような気迫を感じるようでしたら、相手に向かって書くラブレターも成功率は相当高いと思っていいと思います。
ただやはりラブレターはAIの苦手な分野ではないかと想像します。情報量がほとんど役に立たないからです。加えて徹頭徹尾個人レベルの話ですから、主観で始まり主観で終わるようなラブレターはもしかしたら人間にしか描けないものかもしれません。恋は盲目なのですから、AIのように覚めた世界には恋などという愚かな仕業は存在しないのです。
Aしお手本として参考にできるようなラブレターはたくさん書けるかもしれませんが、一人の人のハートを射るような名句が作れるものかとなると、苦戦を強いられそうで相当難しいのではないかと想像します。ただそういうものを集め、パターン化して、ラブレターの書き方のような本を作れば商売になるかもしれません。
ラブレターとAIの組み合わせはよくない組み合わせのような気がしてならないのです。