2022年4月14日
味の世界は、蓼食う虫も好き好きに象徴されるように、極めて主観的な世界です。
ところが「無味の味」と言う怪しげな言い方の前で立ち止まると、どこかしら客観的な側面があるのかもしれないと思うのは、私の思い過ごしでしょうか。
「無味の味は佳境にいらざればすなわち知れず」。この含蓄のある言葉は江戸時代の怪物、平賀源内の言葉ということになっています。ところが、私はその昔、老子の道徳経で、無味の味のことを読んだ記憶があります。ただこの言い回しは老子的と言うより、非常に日本的なものの様に思うので、記憶違いかもしれません。
無味の味は、味覚の達人にして初めてわかるので、凡人のいい加減な味覚では味わえない、繊細な味と言うことになりそうですが、実際にはどんな味なのか、想像すらしかねるのです。仙人が食すると言われている雲はそんな味がするのでしょうか。
言葉が空を切るというか、空回りしそうなのでこの辺でやめにしたいのですが、他に例え用のない話しなので、頑張れるだけ頑張ってみます。
ドイツでレストランに入ると、必ず「飲み物は何になさいますか」と聞かれます。日本ではお冷や、つまりお水が何も言わなくても出てきますが、ドイツはこの水さえもお金がかかります。私はいつも炭酸の入っていない普通の水を頼みます。食事の時はできるだけ自分の唾液で味わいたいからです。食通やソムリエと呼ばれる人たちは、その時の食事に合ったお酒を飲むことで相乗作用があるとと言いますが、私は水の食べ物の味を損なわないところが好みなのでもっぱら水です。とは言え、味わうということで言えば水も禁物で、自分の唾液で味わうことが実は一番なのです。
もちろん食事というのは味だけでなく雰囲気も食べています。同席している人との会話に参加しながら食卓を楽しむものです。お酒を飲んだ方が話が弾むので、その時は飲みます。
水は味がないと思っている方がいるかもしれませんが、水も立派に味があります。消毒された水道水は薬臭い悲惨な味がしますが、湧水や清水はそこに含まれるミネラルの違いにより特有の味がするものです。山を歩いていて清水を口にする時、どの清涼飲料水よりも美味しいと感じます。なんの味もしない様でいて繊細で微妙な、そして実に複雑な味がするのが大地からの清水です。
「真実は真水の如し」と言うのは、間違いなく老子の言葉です。もしかすると、「無味の味」とこの言葉をどこかで混同してしまったのかもしれません。
平賀源内の言いたい無味とは、真実の味がする真水のことを言っているのではないのだろうか、この文章を書いていてそんな気がしてきました。
昨今は清涼飲料水のようなものが江湖に広く行き渡っているように、真実から遠いいことばかりが報道されている世の中です。そうした報道を見抜くためには、しっかりと味の本質である無味を知る必要がある様です。佳境にいらざれば知れず、と言うことは「無味の味」とい言うのは味の世界に限られたことではない様です。
2022年4月12日
二回、三回とドイツへの出発の日が変更されましたが、四月六日にドイツに帰って来ました。
羽田の近くのホテルに五日から宿泊し、六日の朝四時に起きて、五時のシャトルバスで飛行場に向かうという強行軍でした。定刻通り七時五十分に飛行機は飛び立ち、シュトゥットガルトの我が家に着いたのは二十四時を回っていました。ホテルを出てからなんと26時間の長旅でした。
今回の飛行ルートはいつもとは異なりほぼ南回りで、羽田を出ると名古屋、大阪、広島、福岡の上空を飛んで韓国を通り抜け中国大陸の上をゆっくりと南下してゆきました。そしてチベットの上空に差し掛かった時のことです。そこで目にしたのは万年雪を頂くヒマラヤ山脈でした。ほぼ一万メートルの高さを飛行しているのですが、近くに見えるがとても不思議でした。
そのあとは雲の中に入り、偏西風と悪天候による激しい気流の動きのため何も見えませんでした。飛行機は激しく上下に揺れました。
しばらくウトウトしていたようで、気が付くと目の前に広大な大地を巨大な川がうねっているのです。本流に向かって至る所から支流が流れ込む様子は、異様としか言いようのない不思議な光景でした。機内に備えられているマップで調べて分かったのは、その巨大な、まるで大蛇がうねるような姿はドナウ川だったのです。
実際に目の当たりにするドナウ川は地図の上で見るドナウ川とは似ても似つかない、巨大な生き物でした。残念ながら私が目を覚ましたのはイスタンブールの上空だったので、あの有名なドナウデルタを見ることはできませんでしたが、ドナウ川が黒海に流れ込む寸前の河口の大きさには度肝を抜かれました。
ブルガリアとルーマニアの大半をドナウ川とそこに流れ込む何百という支流が覆っているのです。そこは文明社会が造られることはおろか、人間か住むことをすらキッパリと拒んでいるのです。どこを見渡しても橋ひとつない、恐ろしい野生みをおびた光景で、自然という巨大な力をもろに感じ鳥肌が立ちました。
余談になりますが、ドイツ語のものの名前は、男性、女性、中性と三種類に分けられます。河川を意味するFlussは男性名詞すが、不思議なことに河川の中が男性と女性に分かれるのです。
ドイツの代表的な川はライン川です。スイスの山奥で湧出しスイスの都市を流れドイツに入ります。ドイツでもたくさんの都市を繋ぎながら最後はオランダの大きな港町ロッテルダムに流れ大西洋に流れ込みます。
ライン川は遠い昔からヨーロッパの流通に欠かせない川で、たくさんの船が行き来します。昔は今のように鉄道や道路が整備されていませんでしたから、川が内陸をつなぐ大きな役を担っていたのです。アルプスを超えたローマ人はこの川を伝わってドイツに侵入し北上したのでした。
このライン川とドナウ川とは川の様子が全く違います。同じ川なのにどうしてこんなにも違うのか不思議なほどです。
ドナウ川は商業的な流通のために使われることはほとんどありません。部分的には見られても、全体からすると全くと言っていいほどないのです。むしろこの川があることで文明が邪魔されているとすら言えるのです。ライン川はたくさんの都市を繋いでいるので、全く逆です。
ライン川は男性名詞でドナウ川は女性名詞です。どうしてそうなのかと小理屈を捏ねても堂々巡りなので覚えればいいだけのことです。ところが、二つの川の持つキャラクターを見ると、どうして二つの川が別の性別で表されるのか理解できるような気がするのです(思い込み神しれませんが)。そしてどうして物が男性と女性とに分けられるのか納得できるのです。
飛行機から見たドナウの姿は、母なる大地を悠々と流れる母そのものでした。大地をしっかりと潤しているのです。しかしそのためにドナウ周辺は建物を建てるなど考えられない湿地帯です。
ウィーンはドナウ川の周辺にある唯一の大きな都市です。ドナウ川はウィーンを取り巻くように流れています。芸術の都市ウィーンはそうして生まれたのかもしれません。ウィーはドナウ川に守られているかの様でした。
2022年4月2日
直感のことは何度も書いているのですが、その理由は直感的でいる時人間が霊的な存在であることを実感できるからです。
これは人間としての健全さを保つためにとても大事だと考えるのです。
考えるという作業で物事を進めると、合理的だったり、効率がいいというところに導かれてしまいます。それ自体は悪いことではないのですが、それだけだと物質としての人間が中心になってしまい、干からびてしまいます。私には今の時代は干からびた時代に映ります。
直感を磨くためにはどうしたらいいのかというと、純粋に遊ぶことです。目的のない遊びと言えるでしょう。逆に、直感を弱めるのは真面目に一生懸命になってしまうことかもしれません。がむしゃらに、無気になるということです。
ある高名なイギリスの物理学者が親しい気のおけない友人とピンポンをしている時にいい思いつきが降りてくると言っているのを聞いたことがあります。純粋なピンポンですから、勝ち負けなどない遊びなので点数などは数えずに、ただ無心に来た球を打ち返すだけのピンポンです。これが本来のピンポンだと私は思うのですが、そこに点数を数えることが入り込んで来てしまったのです。点数の数え方は、来た球が打てなかったら相手の得点になるというものですから、相手が打てないような球を打つことがピンポンの中に入ってきて、いつしかそれがピンポンになってしまいました。もちろんそこから点数を競って勝ち負けが生まれます。今はこうした形が主流ですが、本来のピンポンからはずいぶん遠ざかってしまいました。
点数を数えるにしても相手が打てないような球を返したらその人に減点の点数が入るというのなら、本来の姿からあまりずれなかったのでしょうが、その逆の流れが本流になってしまったのです。その流れを作ったものが私たちの社会を作っているものと同じだと考えるのは飛躍しすぎでしょうか。
私たちの慣れ親しんでいる思考には時としてこうした流れが紛れ込んでいるので気をつけないとなりません。それだけでなく、本来のピンポンのように、ピンポン球が無邪気に卓球台の上を行ったり来たりしているように考えることがとても難しくなってしまったのです。
人間が霊的存在であると実感するためにスピリチュアルである必要はないと考えています。ごく普通のことの中に霊的なことは潜んでいるからです。今お話ししたピンポン球の動きは非常に霊的なものだと思います。
実は遊びが霊的な自分を教えてくれているのです。
ただ遊びもずいぶん毒されてしまっているので、あえて純粋な遊びと言わなければならなくなっています。
遊びの醍醐味は没頭だとも言えます。時間を忘れて没頭できることを探せばいいのです。そのためにお金をかけるかかけないかは本質的なことではないのでどちらでもいいのです。とにかく没頭が大事です。
物質的な生き方にはいつも時間の制約が付き纏っています。現代は「時は金なり」というところまで来てしまいました。時間に追われたストレスも然りです。時間を忘れたら、お金にはならないのですから、没頭は非物質的とも言えるかもしれません。当然そんなことはお金にもならない無駄なことだということになります。
没頭とピンポンの球の動きは一見矛盾しているように見えるかもしれませんが、物質的思考習慣を超えればよく似たものに見えてくるものです。どたらにも直感は降りて来やすいところなのです。