何かが生まれる、とは。雲の話。

2022年2月26日

今日は「生まれる」ということを考えます。

 

生まれるとは言っても「作り出される」ということで、創造的意味合いの強いものです。

ところが、この想像という言葉は明治以降、翻訳のために作られた言葉でもともとの大和言葉ではないので、私にとってはイメージが乏しく外します。

生まれるよりも「産む」かもしれません。この「産む。うむ」は「海」に通じているらしいので近いものを感じますが、まだインスピレーションにかけます。

なかなかピンとくる言葉が見当たりません。私が考えている「何かが生まれる」というのは、意志衝動を持ったものだからかもしれません。単なる自然発生的なものではなく、かといって人為的なものでもなく、という厄介なことです。

 

 

私のこういった窮地を救ってくれるのはいつもシューベルトの音楽なんです。シューベルトの音楽はいつもいろいろなヒントをくれます。もしかしたら彼も私と同じようなことを考えていたのかもしれないと思うことがあります。

今回はシューベルトの音楽を雲に例えてみようと思います。シューベルトの音楽には雲が生まれる時のような感触があるからです。雲が生まれる瞬間と言っても、普通はあまりピンとこないのではないかと思うのですが、登山などをしていると、ある程度の高さをですが、雲が生まれるところに遭遇することがあります。雲をつかむような話になるかもしれませんが続けます。

 

夏によくスイスに行きます。スイスというと有名な山がたくさんあって、しかも万年雪に覆われた美しい写真で知られていますが、スイスのもう一つの顔は谷、渓谷です。

山には必ず谷がつきものです。山と谷、山と渓谷は対(つい)をなしています。山の国スイスを理解するのに大切なのがこの谷です。スイスは谷文化と言われる文化社会が特徴的だからです。山を越えて次の谷にゆくと全くの別世界があります。そこには違う文化があります。信じられないかもしれませんが本当です。今でも谷の奥深くに住む人たちの中にはその村から一歩も外に出たことのない人たちが住んでいるのです。そんな中で一番顕著なのが言葉です。。いわゆる方言ですが、山一つ隔てただけで言葉がわからないなんてことが起こるほどです。

また谷にはその谷に特有の空気の流れがあり、二つの谷の交差からは激しい衝突が起こり、激しい風の渦になったりと新しい天気が生まれます。そしてそこには必ず雲が生まれています。

そうした雲の発生は自然現象として科学的に説明されているということになっているようですが、その雲を観察していると自然現象としてだけでは説明できない、科学も手をつけていない自然界の神秘とでも言いたくなるようなものを感じるのです。老子の言葉に「谷神は死せず」というのがありますが、老子は谷には神様がいると感じていたのかもしれません。谷もそこから生まれる雲も自然現象以上のものだと言えそうです。

ということで、生まれたばかりの雲を見ていると、単なる雲以上のものを感じるるのです。人格のようなものを感じることがあります。その雲が集まってくると社会のようなものになって天気を左右するものに変わります。それも人間が社会を作るのに似ています。

大きな谷が二つ合わさるとそこで渦が生まれることもあればまるで綱引きのようにお互いの力比べをします。どちらかが必ず勝つのですが、時には互角の勝負をすることもあり、その時は雲が全く動かずに低空で空中に長いこと浮いています。

雲ができる時は気をつけていないと見過ごしてしまいます。瞬時の出来事だからです。あっという間の出来事です。できてすぐ消えてしまうものもあります。できてしばらくあるものもあります。だんだん大きくなってゆくものもあります。という具合意ですから、気圧とか湿度だけで説明できない不思議なものです。雲は生きています。

話は飛躍しますが、直感はこの雲のようだと思っています。ただ私たちの想念の中には山も谷もないので雲とは違いますが、あえて類似したところを挙げれば、緊張の下に生まれることです。緊張を意識しすぎると、緊張がもつれてしまい緊張は死んでしまいますから、そこからは何も生まれませんが、生きた緊張、意識しないでも存在している緊張は直感の生みの親です。

ここまで書いてくると、やはりシューベルトの音楽の生まれる瞬間のようなものを感じてしまいます。シューベルトの音楽が生まれるところは、モーツァルトのように出来上がった音楽が見えてしまい、それを楽譜に写すような作り方とは違います。ベートーヴェンのように何度も推敲してやっと出来上がる音楽とも違います。即興性に富んだもので、意図的に何かを作ろうとしているところでできたものではなく、雲のようにできた音楽をワクワクしながら、自分でもそれがどこに行こうとしているのかがわからない中を、聞こえてくる音楽を追うように作曲しているようです。

物作りにはこうした祝福されたワクワクした瞬間が必要な気がします。

ぜひ皆さんとスイスの山で雲が生まれる瞬間を一緒に見てみたいものです。

理解と直感

2022年2月24日

私というのはわからないものと相場が決まっている。

なぜだろう。

深刻に考えている横から声がする。

そういうものなのさ。

 

これで片付けては身もふたもないような気がするのです、もう一踏ん張りしてみたいと思います。

私というものに問題があるからわからないのか、私たちが普段から慣れ親しんでいる理解するというものに問題があるのかのどちらかだと見当をつけてみました。

まず私たちの理解するというものを見てみます。

理解するというのは、別の言葉で「わかる」と言います。わかるは分かるですから、分かるというのは二つに分かれたものが前提になっています。今、目の前にあるものを理解することを、分かるというのです。後ろにあるものや、上にあるものや横にあるものは理解の対象ではないということです。こうしてみると、英語でわかるというのが「I see」と言うのかが理解できます。見えるところにあるものだから理解できるのです。

自分というのがこの慣れ親しんだ理解からは理解されないことも少し見えてきました。

自分というのは目の前に置けないからです。私たちは自分というものの中に入っているので、自分が見えないのです。後ろのものや上のものや横のものが見えないようにです。

と言うことは自分というのを私たちの理解の対象にするためには、自分を二つに分ければいいということになります。しかし自分というのはハサミで切ったり斧で割ったり手でちぎったりと物理的にできるものではないので、二つにすることは容易ではありません。

誰か「自分分割法を発見してください」と叫びたくなります。それができるまでまで待つしかないようです。

もう一つは理解を、いわゆる「分かる」という二つに分けて、その一つを目の前に置くというテクニックを別のものにすれば、今のままの自分でも理解が可能になりそうです。

自分と一つのままで自分を理解するのです。

それが実際にはどんなことなのかしばらく考えさせてください。

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それはどこからも光がこない真っ暗闇の中にいるようなものなのでしょうか。

そうなると触覚だけが頼りになる感覚だと言えそうです。

そこで自分というのは触覚の感触の中に収められてしまいどこにも逃げ場がなも同然です。

もがこうと叫ぼうと救いの手はどこからもきません。

もちろん私たちが知っている理解は為すすべがないのです。

ここで生半可な瞑想やメディテーションをしようものなら、ますます自分を閉じ込めてしまいかねません。

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実は自分を自分の中に閉じ込めているのはエゴというもので、自分を自分として閉じ込めることで、自分という枠を作り他と区別しているのです。

エゴによって作られた自分という枠は人間社会で生きるにはとても便利なものです。エゴが強くなれば自己主柱が強くなるのはこの枠を強めるからです。

そうすると自分というものを理解するてがかりは、このエゴを取り除き枠を外すことになりそうです。そうして本来の自分に返すことです。

もちろんそれだけではまだ何も始まっていないのです。ただ今の私にはこれ以上話を進めるのは無理です。一つだけ手がかりになりそうなのは「直感」という、上からか後ろからか横からかわかりませんが見えない力で自分というものを支えている力に頼ることだけです。

金襴緞子(きんらんどんす)

2022年2月22日

室町時代におられた金襴緞子の帯びを見る機会がありました。

嘗てのおびは帯としてではなく、アンチークの反物に姿を変えて今日まで生きながらえたのでした。そして好事家の手に渡り、歴史を生き抜き、ロマンを今日に伝えているのです。

「金襴緞子の帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのでしょう」の歌の意味はよくわかりませんが、金襴緞子で作られた帯を締めるほどのお嫁さんは、上流階級のお嬢さんに違いなく、その階層での婚姻は政略的なものだったことが想像できますから、お嫁入りは今日の恋愛結婚のようなハッヒーなものではなかったということです。花嫁の涙は歴史の犠牲者の涙ということかもしれません。

 

見事な織から作られる模様は形容する言葉がないほど見事で、ただただ見惚れてしまいます。金の糸で織られたものなのに、きっと縦糸の貼り方の絶妙な技がなせるものなのでしょう、絢爛たる豪華さのような面影は一切なく、地味な色調の中を金の糸で織り込まれた柄が浮き出てきて、光の具合で、絶妙な翳りを作ります。見ているだけでゾクゾクしてくるまさに名品です。そこで使われた技術は今では解明できないほど複雑なもののようで、幻の織物と言われています。

金襴緞子のような工芸品に触れると、昔の人間は幼稚で私たちの近代現代は立派な文明社会だなんてどこ吹く風です。こうした技術はそれに相応しい精神によって支えられていたものでしょうから、私には現代という時代は進化した姿ではなく退化した姿を呈する文明としか見えないのです。

機械の力を借りての物作りが近代・現代の誇りですが、それは一途に大量生産という商業社会を支えるための原動力になったに過ぎないものと言っても過言ではないと思っています。

確かに、民衆が貴族社会で愛され、使われているものを真似て作られたものを手にする喜びをもたらしたという点では、大量生産は大きな貢献をしたということになるのでしょうが、文化としてのクウォリティーはその結果、惨憺たるものに成り下がったようです。

嘗ての織物士たちの技から生まれたものは磨き抜かれたものですから、大量生産のもとで簡単に忘れ去られ、その結果今では幻となってしまったのです。このプロセスは金襴緞子の織物に限らず、これからもっと明確になってゆくことと想像できます。そしてそれを取り戻すことが望まれるようになるかもしれません。それはただノスタルジーと片付けられない、深刻な願いと言ってもいいものだと思います。私たちは、実は惨憺たる社会の中に生きているのだと知り、そこから抜け出す準備を始めなければならないのかもしれません。

かつて寺山修司は「書を捨てて街へ出よう」と呼びかけました。

今日は「スマフォを捨てて街へ出よう」と言い換えられそうです。

文化の惨憺たる姿すら気づかなくなってしまったのが現代社会の特徴と言っていいのかもしれません。悲しい特徴です。あまりに悲し過ぎます。