2022年2月20日
知的能力は今の社会で高く評価されています。
この能力は確かに頭部を中心として働いているものです。
しかし頭部には本来他の要素も入り込んでいるはずなのです。
クレプトマニアは、盗癖、万引き癖というふうに呼ばれています。
原因は心のストレスと言われ、不安や、満たされていないものを心が感じていると時、ついやってしまうもので、本人は「盗んだ」という自覚がない場合が多いようです。知らないうちに「またやってしまった」と捕まった時に思うのだそうです。
この現象に対しシュタイナーが治療教育講座の中で言い及んだことがあります。
手短にまとめると、頭部を知性が大半をしめ、他の要素が追い出されたような状態になると、盗癖、盗み、万引きのようなことが起こりますと言います。
知的能力をギラギラさせている人とは、普段の生活でお付き合いするのがとても難しいようです。
ホワイトカラーとブルーカラーという言い方もありますが、ホワイトカラーの人が起こす犯罪は、普通には考えられないような残酷さがあります。知的能力がとぐろを巻いたような一筋縄では行かない冷酷な犯行手口です。
私の知り合いの車の販売をしている人が、弁護士と医者にだけは売りたくないとよく言っています。頭のいい人は、物事をいつも斜に構えて見ていて、駆け引きしようとしている。私が精一杯サービスしようとしても、それを素直には受け止めてくれないとこぼしています。
知的能力について考える時、私はいつも「冷たさ」を思い描いています。私自身が冷たい空気の中にいるような感じです。
知的な人は、冷たい人です。その人が冷たく振る舞うのではなく、その人の行動そのものが冷たいところからのものだからです。考えるという行為も、冷静にというのが一番相応しいのです。
反対に「温かみのあるお考えですね」などと言われたら、考えが甘い、曖昧だと思ったほうがいいでしょう。
思考は冷たいほうがいいのです。冷たく考え抜かれたものが、考えとしては立派だということです。
この冷たさが人間の頭部を支配するとどうなるかという、そこには自然と盗癖、盗み心、万引きをしたくなるのです。
これがエリート社会の中を形を変えて、知能犯として横行しているのではないのだろうかと思うことがしきりです。
しかし教育が未だ知的なものを後生大事にし、そこを中心に回っている限り、エリーをはじめ社会というのはなかなか変わるものではないようです。
2022年2月19日
何か大切なことを言おうとしている時に、一番考えるのは「どう」話を切り出すかと言うことです。
言いたいことは決まっているので、そこはいじれないわけで、悩むのは「どう」切り出すかと言うことです。
うまく行くか、うまく行かないかはこの「どう」にかかっています。
下手に切り出せば、台無しですから、そこは慎重にならざるを得ないのですが、この「どう」はなかなか厄介なものです。相当工夫が必要だと言うことです。言葉数が多ければいいと言うことではありません。
ドイツの諺に「Ton macht Musik」というのがあって、Tonは音のことでmachtはするとか作るで最後のMusikは音楽です。しかし「音が音楽を作る」という直訳では何も伝わらない、奥の深い諺です。
「言い方次第」と思い切って訳した方が真意に近いようです。
つまり、「ものには言い方があって、言い方次第でその話がうまく纏まるかどうかが決まる」ということです。音楽に置き換えれば、音楽は演奏次第と言うことです。同じ音楽も演奏者によって随分違うものです。下手な演奏を百回聞いても、いつまでも訳のわからない音楽が聞こえてくるだけです。
言い方でしくじるとたどり着くべきところに辿り着かないのです。「そんなつもりではなかった」と後になって言い訳をしても後の祭りです。慎重に切り出さなければならないのですが、緊張したりしたら帰った台無しです。熟練した慎重さが必要です。
シュタイナーは物事を説明するときに定義づけをしたり、概念用語で説明するのではなく、イメージを用い、イメージに訴えかけることを奨励しています。Bildhaft映像のようにと言うのですが、ビジュアルと言うこととも違うようです。
イメージと聞くと曖昧な感じを受けますが、決して曖昧な、と言うことではありませんから、具体的な、話に焦点があっていなければならないので、鮮明なイメージが要求されます。
急がば回れのようなもので、遠回しに説明することにもなりかねないので、話しては相当しっかり目的を意識していないとできない芸当です。ただ他人からの受け売りの知識で語るのとは大違いで、自分自身で本当のことがよくわかっていないとできないことです。
いつも思うことですが、本当にわかっている人の話はわかりやすい物です。そのわかりやすさは遠回しになってもいささかも気にならない不思議なものです。逆に言えば、本当に知っていることだけを話せと言うことのようです。
シュタイナーの言葉を読んでいると、直線的でないのですが、くねくねと回りくどくても、話の流れの中に隙間がないのは不思議です。矛盾していたり、全く関係のないようなことを言いながら、いつしか話はたどり着くところにたどり着いていると言った感じです。もう名人芸としか言いようのない物です。
隙のない話し方はぜひ見習いたい物です。理詰めで話している人の話は、一見筋が通っているように聞こえても、それは表面的にそう言う流れが生まれているだけで、深掘りすると、他人からの受け売りのようなもので荒が目立ち隙間だらけのものが意外と多いものです。
2022年2月19日
長いことドイツで生活していて感じることの一つに、ここにあるのはほとんどと言っていい程直線だと言うことです。
丸みを帯びた波打つような流曲線がないのです。
建物を見ても角張っているものばかりです。石造りということが原因しているという人もいますが、北ドイツのリューベックにあるホルステン門をみると、この建物は例外的にたっぷりと丸みを帯びています。石でも作ろうと思えばできることなのですから、原因は素材が石だ殻とは言えないと思います。
ヨーロッパには古くは木で建物が造られた歴史があります。ソロモンの神殿は木造だったと読んだことがあります。見てみたかった!!
ギリシャの神殿はすでに石造りですが、木造を模した物だという説もあります。作られたのは石ですが精神は木だったのかも知れません。
ギリシャで彫刻を見たとき、服から作られるヒダの線の動きがとても印象的でした。まるで筆で書いたひらがなの曲線のようだったのに感動したことがあります。よく似た彫刻でもローマ時代にはもうその流線の面影は無くなっています。とても硬い線でした。
音楽も私の感覚からすると直線の組み合わせでできているのです。あたかも物差しと三角定規で作ったような直線の集まりだと言ったら言い過ぎでしょうか。
音楽の歴史を遡ると、グレゴリオ聖歌と呼ばれる音楽には曲線を感じる物がありますが、ルネッサンス以降の音楽からは直線の組み合わせになってしまいます。グレゴリオ聖歌は言葉を歌うものでそこで生まれた装飾音が曲線的な流れを生んでいますが、ルネッサンスに入ると器楽曲が主流になってゆきます。それに伴って音楽が直線に変わるようです。
そんな中で私の気持ちを和ませてくれるのはシューベルトの音楽です。歌曲の王と言われていますから、たくさんの歌がつくられています。しかし彼の音楽の中に曲線を感じるのは主に器楽曲です。
なめらかとか、波とか、和むという言葉に感じる響きがシューベルトの音楽から聞こえてきます。もしかするとこの音楽から感じられるものが唯一曲線のなめらかさかも知れません。一筆描きのようにです。
シューベルトのピアノ連弾曲には好きな物がいくつかあって、D951という番号のものは特にお気に入りです。その曲の入りが全くもってなめらかなのです。よくこんなふうに、何もないかのように、自然に、なめらかに、音楽を始められるものだと感心してしまうのです。サーカスで、綱渡りをするピエロのようだと表した人がいました。そんな軽やかさもあり、バランスの良さがあり、普段ヨーロッパの音楽からは聞けない世界が聴かれるのです。
いま私はシュタイナーの翻訳に挑戦していることは何度か書きました。もう何度書き換えたことかわからないほど、文体に苦しんでいます。
実はシュタイナーのドイツ語はドイツ人にはとても読みにくいドイツ語で、私がドイツ語でシユタイナーを読んでいると「お前は本当にこの文章が理解できるのか」と目を白黒させながら私の顔を覗き込んできます。「シユタイナーはなんでこんな言い方をしなければ喋れなかったのかわからない」とため息混じりです。
日本語に置き換えられてしまったシユタイナーは、原文で読み慣れている私の感覚からするとお行儀の良い知的な学問的な文章です。もちろん翻訳ですから分かりにくいというのはつきものなので、そのところを差し引いて言っています。ある程度普通の知識人が喋っているようで、シユタイナーの語り口調の持つ不思議さは消えています。
シュタイナーの語り口の不思議さはどこにあるのかというと、決して直線ではなく曲線的に語ることなんです。紆余曲折させながら一つの文章に仕立てる名人と言ってもいいかも知れません。直線でしか考えられないドイツ人には、こんがらがって、蛇がとぐろを巻いているような曲線的語り口調が苦手なのだと、最近になって合点しました。
そうだったのです。
シユタイナーはドイツでは珍しい曲線志向の人だったのです。曲線的な動きを持つ語り口調の名人だったのです。ドイツ人が「読めない!!」と匙を投げるのは無理のないことだったのです
ここからまた新たな挑戦が始まった気がします。