一般人間学から普遍人間学へ、シュタイナーの口調について

2022年1月11日

私は人の話を聞くときに、その人が何を言っているのかを聞いていない事があります。では何を聞いているのかというとその人の語り口調です。講演会などでも眠ったように見えるので、注意をされた事があるほどです。言っておきますが、ちゃんと聞いているのです。ただ聞き方が他の人たちと少し違うだけです。

数人で話をしているときなどにも「仲さん聞いていますか」と釘を刺される事があるのですが、失礼なことです。聞いていないように見えて聞いているものなのです。ですから質問されたりすると、そのことに返事ができるのです。

 

私が聞いているのは、すで言いましたが、内容的な何をではなく、その内容を伝えようとしている乗り物である口調であり、話している人の声の質とか語り口調です。話し手のオーラと言ってもいいのでしょうが、そういうと大袈裟に聞こえてしまうので、雰囲気と言っておきます。あるいは今日的には空気でしょうか。声紋をとれば、その人の基本の声は指紋の時と同じに変わらないのでしょうが、日によって体調によって声の張り、艶そして響きは違います。その辺を話を聞きながら楽しんでいるのです。私的には、そのほうが話全体がよく掴め、分かるのです。

 

シュタイナーの翻訳で一番訳したいのはこの口調を伝えることです。シュタイナー的な余韻のある口調です。この口調を訳せなかったら訳す必要はないと考えています。講演集の中で何を言っていたのかは、すでに二つの優れた翻訳がありますからそれにあたっていただければ用が足ります。新田義之氏のものと高橋巌氏のものの二つの翻訳で十分足りていると思います。

 

シュタイナーの口調を訳そうという試みです。勿論ドイツ語なのですが、シュタイナー口調はドイツ人にとっても珍しいもので、すごく付き合いにくい口調です。独特の言語リズムがあると言ってもいいでしょう。今日のように単刀直入に手短に伝えようとするのとは全く違います。その事が習慣になっている現代ドイツ語にとっては厄介極まりないものなのです。なんでこんな言い方をしなければならないのかと文句を言う人は後を断ちません。もちろんシュタイナーの現代語訳という代物があります。

彼の口調は、まるでおろし機で野菜を粉々にしてしまうようなところがあり、それをつなげるにはしっかりした語学力が要求されますから他の人が真似をしたら頓珍漢な、グロテスクな文章になってしまいます。結局いつも言っているように、「用件を足すことだけが言葉の使命ではない」というところに行き着くと思います。

 

俳句を和歌にして詠ったらどうなるでしょう。意味は伝わるかもしれませんが、和歌になった俳句は全く意味がないのです。伝わっていると思われている意味にしても実際は伝わっているようで伝わってはいないのです。

「五月雨を集めてはやし最上川」と言う俳句を例に取ると、雨で水嵩の増した最上川の様子は伝えられても、俳句になったときの緊張感、充実感、風景の中の作者は和歌に置き換えられてしまえば全く違うものになってしまうでしょうし、言葉遣いからして違ってくるはずです。ましてや散文で言える様なものではありません。

言葉の口調もそんなところです。シユタイナーの口調はもちろんドイツ語以外では絶対に生まれなかったものです。それば訳そうとしても、オランダ語でも英語で、フランス語でもイタリア語でもスペイン語でもできないのです。意味を重視して訳すと、口調は犠牲になって全然違う文章になってしまいます。それでも伝わっているものはあるのです。文章は今日では用件を伝えるための道具なのです。文章がオーラを持っていてそこから感じ取ることなどは忘れられてしまったのです。

 

そこをなんとか日本語でやってみたかったのです。ただ好事家の趣味に過ぎないと言われるものなのかもしれません。ですからいつも、「本当にやる意味があるのか」という疑問を抱えながらの仕事でした。そんなものを知りたがっている人はどこにいるのかと思った瞬間に、翻訳する喜びが消えてしまう事がよくありました。用が足されていればよしとされるのならそれでいい様な気になり、旧来の翻訳に戻ってしまうのです。

ドイツ語での経験を生かしてシユタイナーの息遣いが伝えられ、その息遣いの中で理解できたらというのか私の願いでした。シュタイナーが言っていることは息遣い以外では伝えられないと思っていたからなのです。ただ本当にそこまでやる必要は本当にあるのだろうかと動揺しながらの仕事と言えます。

 

音楽の中の風景、シベリウスという作曲家

2021年12月31日

音楽と風景の結びつきについて、有名な逸話は、作曲家てあり指揮者でもあったグスタフ・マーラーの弟子が夏の休暇に遊ぶ先生のマーラーを訪ねた際の話です。駅に降り立った時に目の前に広がる風景があまりに素晴らしかったので、見惚れていると「この風景はみんな私の作曲の中で音楽になっているからそれを聞いて貰えばいいと、そそくさと迎えの車に乗せ山小屋の方に向かったということです。

昔からクラシックの音楽を聞いているとよく風景が出てきたものです。これは私だけのことではなく、音楽好きの友人たちと話している時によくテーマになったものでした。

却ってベートーヴェンの六番の交響曲、ニックネームが田園交響曲です、からは鳥の囀りとか、水のせせらぎを模した音が聞こえてはくるものの、風景らしいものは見えてきません。

音楽に聞こえるというのか、音楽の中に見えてくるというべきなのか、そこに出没する風景は私にはとても懐かしいものなのです。よく知っているのです。

 

最近発見した音楽家にフィンランドの作曲家シベリウスがいます。二十世紀初頭の人ですから、発見されたとは言えないのですが、今までは名前ぐらいしか知らなかった人の音楽を、最近になってようやく一生懸命聴いているのですから、やっぱり発見に近いものです。

昔はこの作曲家の音楽、特に交響曲はどのように聴いたら良いのかわかりませんでした。でからレコードもCDも持っていません。

何年か前の誕生日に友人が「シベリウスって聞いた事があるか」と言って交響曲の全集を持ってきたのです。「ヴァイオリン協奏曲、ピアノ小品集ぐらいはしつているよ」と答えると、友人は「交響曲がいいんだよ。聞き終わったら返してくれ」と押しつけるようにCDの全集を置いていったのです。それをつい最近取り出してどんなものかと聞き始めたのです。友人は私にシベリウスのCDを押し付けてきたことを忘れていました。さて聞き始めたものの初めは昔のようにどこに焦点を合わせたら良いのかわからずに聞いていたのです。ところがある時、他のことをやりながら、所謂ナガラ族的に聞いていると、ボワーと何とも言えない景色のようなものが目の前に広がっているのです。別の交響曲を聞いてもやっぱり風景が広がつているのです。「面白いなあ」と独り言を言いながらその日は三枚ほどいっぺん聞いてしまいました。三枚目あたりから、単なる風景ではなく、フィンランド人のシベリウスを取り巻いているフィンランドの自然を彼は音楽にしたんだとワクワクしてきました。

自然を描写するとかいうものではなく、自然の中にいるシベリウス自身の姿が見えてくるようなのです。私がその昔ノルウェーとスウェーデンを旅行した時のことを思い出すこともありました。北欧は中央ヨーロッパとは光が違います。とても栄養価の高い光だと思います。光が強過ぎて圧倒されてしまいます。その結果どうなるかというと北欧では思考が停止してしまいます。考えられないのです。

シベリウスの音楽が苦手だった頃は、音楽を思考するものとして聞いていたのだと思います。最近はそんな力みが抜けたのでしょうか、ぼんやりと聞く事ができるのです。そこに出てきたのがフィンランドの自然でした。とても透明な自然です。昔の中国の山水画のように人間は大自然の中にポツンと生きているのです。フィンランドは人間よりトナカイの方がたくさんいるとか、人間の数以上の湖があるとか言われるように、自然は人間を凌駕した力を持っています。

シベリウスが自然を作曲しようとしたのではないことが、彼の音楽を聞き応えのあるものにしています。作為的なものではない、自然に誘われるままに音楽が生まれたようなので、とてもリラックスして聴く事ができます。

この歳になって、こんな楽しい発見があるなんて、人生捨てたもんではないですね。

再び国語のこと

2021年12月30日

国語を掘り下げれば言葉との関わりに突き当たります。

結局はどのように言葉を習得するのかということです。

厄介なのは言葉は小さい時には自習できないものだということです。自分だけで勉強してものにできるというものではなく、周囲の言葉遣いからしか学べないので、そこに運命を感じてしまいます。周囲の大人が言葉をどのように使っていたかが決定的なことのような気がします。

国語というのが小学校から教科として設定されているのはいいことですが、国語の時間に教えられている内容は国語力を強めるものではないような気がしてならないのです。

読めたり書けたりする、使える漢字が増えることは頼もしい成長です。語彙数も同じように大切です。文法とか、読解力のようなものを国語の時間では勉強しました。読後感想文なども書かされました。しかしそこで国語力が作られたかと聞かれれば、大切なところが抜けているようで首を傾げてしまいます。

大切なところというのは、自分の使っている言葉が周囲に、相手にどのように受け止められるのかを感じる感性です。相手があっての言葉だと思うのです。

文章のセンスのある人たちは、ここのところにとても感度の良いものを持っているのでしょう。勿論訓練で磨くこともできるでしょうが、言葉のセンスですから、成人してからはとても難しいものがあります。

 

国語力と言うのは社会全体が問われる問題のようです。メディアも国語力のいったんです。特にテレビの影響は大きいです。こんにちではインターネットの影響で昔ほどではないにしても、テレビでお笑いの人たちが下品なやりとりをしているのは見ていて辛いものがあります。綺麗事を並べれば良いのかと言えばそんなことで解決するものではないのですが、良い言葉を聞くと言うのが国語力を支えることは確かです。勿論読書はおすすめです。

読む事が大事と言うのは、外国語の習得の時に何度も言われたことでした。会話の練習はパターンがあるような気がしますが、文章と言うのは作者の世界に入り込まないと、感じられないものですから、そこで苦労して文章を解き明かす訓練をすることで、日常生活にもそこでの学びが反映されます。

声に出して読むと言うのは特別です。私の場合は「星の金貨」という短いグリム童話を暗記して空で話せるまで覚えました。初めはわからないのですが、だんだん氷が溶けるようにわからないことが分かるようになってゆくのです。それもある日突然分かったりするのがとても不思議でした。そこで覚えた文章を日常会話ですぐ使えるかと言うとそんなことはないのですが、なんとなく自分の言葉に広がりを感じるようになれるのです。そして今自分が使っている言葉が、言い方が、どこに位置しているのかが体得できるようになるのです。ということは相手がどのように聞いているのかを追体験できるようになるのです。

外国語を学ぶ時の話でしたが、基本は自分の言葉にも当てはまります。いや自分の言葉をどこまで感じながら使っているのかの上に外国の言葉も上積みされますから、やはり国語力がどこまで行っても大切なようです。