芸術とは

2021年12月24日

この歳になると、生きるということがはっきりとしてきます。
死に向かって生きているのです。
別に死に急ぐ積りはありませんが、一日一日死に向かっていることは確実です。
こんな当たり前のことにこの歳になって気づくなんておかしいです。
と言うのは、生まれた時から生きるとは明らかに死に向かって歩み続けていたからです。
生きるとはなんと摩訶不思議な営みなのでしょう。

人生を乗り物に例えれば、今言ったように、死に向かって只管走り続けているものです。
運命です。宿命です。決められたことで、それに逆らう事はできません。
立ち止まることはできません。逆戻りもできません。
死に至る道程を毎日噛み締め続けたら、滅入ってしまいます。
ノイローゼになるか、鬱になるのは避けられないでしょう。
生きるとは、こうしてみるとすれば、病む事です。
生きるとは、哲学者キルケゴールが言うように「死に至る病」です。
そうなればこの世は精神病棟と言うことになります。

この宿命から抜け出したいと言う本能を人間は授かっています。
私にはそう思えるのです。
生きて行けるのは、ただ死に向かっているだけでなく、そこから放り出されることがあるからだと思っています。
誠にありがたいことです。
何が起こっているのでしょう。
感動です。
感動することで、死に至る病という宿命から外れられるのです。

感動は一瞬の出来事です。
ずっと感動し続けることはありません。
感動には持続力と言えるものはないからです。
閃光のように一瞬の出来事です。
しかしこの一瞬がなんとも大事です。
今の真っ只中です。今中、いまなかです。同時に永遠なのです。
たった一瞬ですが宿命から外れたその瞬間に人間の本質に触れ永遠を生きることができるのです。

生きることは説明すれば死に至る病になってしまいます。
生きるとはつまらないお話を作ることはやめ、一瞬を作る続ければいいのです。

いま私は芸術のことが少しわかったような気がしました。

一般人間学から普遍人間学へ その三

2021年12月22日

いじめは至る所に見られるものです。
最近では学校でのいじめばかりが取り沙汰されていますから、学校に特有のもののような印象を持ってしまいますが、いじめは学校の専売特許などではなく、社会の至る所に見られるものなのです。
これを退治しようと頑張っても、多分徒労に終わると思います。それくらい根っこの深いものだからです。今までもずっと存在していたものですし、これからもと同じように存在するものだからです。
なぜいじめはこんなにまで人間社会に巣食っているのでしょうか。簡単には答えられないと思います。

戦争時代軍隊に入るというのは上官、先輩からぶん殴られるということが当たり前だったと読んだり、親の代の人からの話に聞きます。ソ連連邦共和国の軍隊では新しく入った兵隊の中から毎年百人以上が自殺をしていたという記録があるそうで、新参者はどこでもいじめられたのです。体育会系のクラブでも、新入生は徹底的にいじめ抜かれるのが当たり前でした。歓迎祝いのコンパなどでは、飲めなくても吐くまで飲まされて鍛えてもらったのです。今日の社会では考えられないと思っている人がいたら、現代社会を知らない人たちです。ただいじめは表からは分かりにくくなり、陰湿になり、どこにでも見られます。外国にいると同国の人たちが集まって何かをするということが頻繁に行われますが、そんなところにもいじめの精神は立派にあって、新参者は色々とためさせられるようです。仲間外れにするというのも一種のいじめと見れば、こんなことは日常茶飯事のことです。
いじめは弱いものいじめが基本です。しかし一人でいじめというのはしないものなので、いじめの基本には集団行動という意識があり何人かがグルを作って一人をターゲットにするというパターンが多いようです。実に陰湿です。

頭がいいとか良くないとかはいじめの世界ではなんの役にも立たない基準です。
頭のいい人はずる賢いいじめをします。一方お馬鹿さんたちは非常にわかりやすいダイレクトないじめを展開します。わかりにくいいじめとよく見えるいじめがあるのでしょう。いじめの質ということになると、頭のいい人の方が手が混んでいて残忍で残酷です。特に頭に血が上ってしまうと、残忍さは頂点を極めます。昔赤軍派という集団があって、内部闘争が大変残酷で、リンチという言葉が普通に使われていたようです。リンチはいじめとは次元の違うものですが、基本はいじめに通じています。この赤軍のメンバーは社会的によくいう優秀な人たちの集まりだったのです。いじめの根っこは人間の知性というものの中に潜んでいるのかも知れないと感じる社会現象でした。最後は浅間山荘の大事件でした。
ここで思いついたのが、いじめ退治に効く特効薬はなんだろうということですが、感情をしっかり作ることです。感情がしっかりしていれば、精神的に安定しているもので、頭に簡単に血が昇ることはなくなるような気がします。感情がいい意味でのブレーキになると思うからです。現代社会の好みは知的な人間ですから、感じようの安定した人間には魅力を感じないのかも知れません。おっとりして、ぼんやりしているので、冴えた印象を与えるものではないかも知れませんが、感情が安定していなければ、知性も十分活躍できないものです。
私がお世話した子どもの中で、知能指数がやたらと高いのに、学校で授業についてゆけないという子どもがいました。私はそういう子どもを集めた施設で働いていたのですが、その子どもたちは、頭がいいのにそれを使いきれないというジレンマから大変なストレスを感じていて、教室で何度も爆発してしまい、教室が荒れるため、先生が限界を感じ、私の勤めていた施設に預けるよう手配したのですが、その子どもたちに共通しているのが、「心の安定を欠いている」ということです。大抵は家庭環境が悪いことが原因でした。小さい時から感情が掻き乱されていて、安定することがなく、何かがあるとすぐに切れて、頭に血が上ってしまい荒れ狂ってしまうという繰り返しをしていたのです。
せっかく頭が良くても、IQ160の子もいました、感情に狂いがあると持っている能力すらも使えないという大変なことになるのは、私が持った情緒障害の子どもに限ったことではなく、現代社会を見渡すと、頭に血が上っているとしか言いようのない全く同じことが至るところで起こっているような気がしてならないのです。
感情の安定は今の社会では急務のことのような気がします。

一般人間学から普遍人間学へ その二

2021年12月19日

ある老人ホームに知り合いの婦人を訪ねた時、彼女は自分の人生を振り返りながら自分史を書いていました。
その自分史をお葬式の時に読むというのです。身の回りに起こったことを書くだけならまだしも、どうも自分で話を作っているように思えて仕方がなかったのですが、私が口を挟むべきことではなかったので、その夫人が書いているのをそばで見ていました。
お葬式の時、あの時書いていた自分史が読まれたのですが、私にはどのように聞いて良いのかがわかりませんでした。

サピエンス全史のユヴァル・ノア・ハラル氏はレッスン21で、自分の物語を作らないことという項目を掲げています。このことをテーマにしたのは彼が初めてではなく、彼以前にも、やはりユダヤ系の哲学者、マルティン・ブーバーが同じように自分の物語を作らないことと厳しく戒めています。彼は戦後のドイツで活躍した哲学者で「汝と我(Du and ich)」の著者で、その中でこのことを言っていました。

昔から物語にはどこかに嘘が潜んでいると思っていました。小説はもちろん、歴史という一見科学のような顔をしているものも、何年かすると嘘がバレてしまって、昨日までの史実が泡となって消えてしまうということすら起こりうるのです。英語で歴史は「history」ですが、そもそもは「his story」のことで為政者の都合で書かれた物語に過ぎないという意味です。学校で、神話は嘘で歴史は史実に基づいた科学だ、真実だと教わったような気がするのですが、最近は神話の方が本当ではないかなんて考えてしまうほど、歴史の中の嘘にうんざりしています。

なぜ人間は物語を好むのでしょうか。私は、居心地のいい場所作りたいからだと思っています。
自分で作る物語は過去を向いています。本当はもう変えられないことなのですが、そこに脚色を加えてしまうのです。過去の自分のことばかりで、しかも自分中心で、自分に関わったさまざまな人を今の時点からコメントします。自分の都合の良いようにです。こんな自分史をお葬式の時に読むのです。今でも私には信じられないのです。

森鴎外が晩年、自分の一生は、学び、仕事をすることで費やしてきたが、いま故郷を散歩して道端の花が綺麗だと思っても、その花の名前すら知らない。振り返るとなんという一生だったのか、というようなことを書いています。
人間は社会的な存在です。学問をし、立身出世も考えています。そんな中で人間関係に揉まれて生きてゆくわけですが、それは機能する人間を見た時の話で、人間という全体を見れば、人間にはももう一つの姿があります。森鴎外が晩年になって気づいた一面です。人間が自然とともにある存在だということは、誰に聞かなくても明らかなことなのに、それれについてはさほどの注意も払われないのが現代です。社会的人間と比べて自然は取るにたらないものなのでしょうか。そこに人間のおごりを感じます。

シュタイナーは、大人の社会の中で起こっていることを子どもの教育の場に持ち込むことを厳しく禁じています。大人の利害関係が人生だなんて教えているし社会があるのかと思うと情けなくなります。道端のかわいい花の名前がわからなかった森鴎外になんとなく人間味を感じるのです。自然、自然と環境問題を口にしている人たちの自然観はどういうものなのでしょうか。彼らの自然は思想としての自然なのでしょうか、それとも目の前にしている自然なのでしょうか。自然から自然の法則を見つける作業は、死んだ自然を相手にしているのだとシュタイナーは指摘していて、そうでない目で見て、鼻で匂いを嗅いで感じる自然から自然を学ぶべきだというのです。ドイツの森に入ってゆくと、そこで匂っているのは単純なものではなく、想像を絶するほど複雑な匂いがします。それを森の匂いなどと一括りにしてしまう人の無神経さには驚かさせられます。皮肉な言い方ですが非常に知能指数の高い複雑な匂いです。

自分の物語を作ってしまうと、過去の死んだ自分、過ぎ去った自分を整理しているだけです。しかも自分の都合の良いようにです。
人間は死にます。死というのは、そこから何かが始まる瞬間でもあると考えれば、済んでしまった自分だけをほじくり返しても、しっかり死ねないような気がしてならないのです。死んだら全ては終わりと考えるのはずいぶん身勝手な合理主義のようなものに感じるのです。