おんなじということは。

2021年11月5日

おんなじように感じ、おんなじようなものを食べ、おんなじようなものを着る。
刑務所での生活の話ではなく、普通の日常生活のことを言っているのです。
とおいい昔、原始時代はおんなじが当たり前でした。おんなじ以外は考えられないだけのことですが・・。
最近またおんなじが流行っていて、知らず知らずのうちにおんなじということに違和感がなくなってきています。

その傍らでは個性、個人が大切だと言われ、オンリーワンなので個性を大事にしましょうと政府からもお達しが出ています。
個性という言葉がいつから社会に登場し、政府関係者もこぞって個性個性と言い始めたのかは簡単に言えないでしょうが、明治の始まる少し前の開国以降の話で、その後時間をかけて社会的に浸透し認知された言葉になってきました。
この言葉は翻訳語ですから、初めて耳にした人たちは何をどの様に理解したのでしょう。
翻訳語以前にどういう言い方があったのか、それも気になり調べてみました。
私の想像力が貧困だからだとは思うのですが、見つかりませんでした。もしかしたら個性とか個人主義に見合うものは、集団とか和の精神が貫いた日本文化にはなかったのかもしれません。

あったからいいとかないからダメだという物ではないのですが、個性、個人主義というのは社会的に上等なもののように扱われるような気がするのは私だけでしょうか。権利という角度から個人はしっかり浮き彫りになります。自己主張も権利の主張の様なものですから、法的な考えの普及と個人は並行している様に思います。それ以外のところで個人は集団に溶けてゆくものです。
そのことからだと思うのですが、個人、個人と言ってそちらの方ばかりを強調すると、孤独な人に溢れた社会になってしまいます。非常に不自然なものです。
時々は一人になって静かな時間と空間に身を置くことで心身ともにエネルギーが補給されるのですが、四六時中一人ということになると、取り残された状況に陥り、疎外感にまで発展しかねません。こうなっては社会はまとまったものとして機能しなくなり、ほとんど病気と言っていい状態で、そこからは生産性も創造性も消えてなくなってしまい、人間一人一人が乾いた砂の一粒一粒になって、バラバラです。
人間は一人で生きて行っても、人間として充実しないもののようです。他人が必要です。
今の社会は個人を強調する一方で、それをカモフラージュにしてどんどんおんなじ方に強制的に向かわされているように思えてなりません。ジャーナリズムはそこに一生懸命拍車をかけて、その特殊な傾向を後押ししています。巧みに仕組まれているので、気が付かないうちに新しい文化の誕生のような綺麗事でコーティングしたプロパガンダが社会に振りまかれるのです。
政治・経済ではグローバルという言い方が未来的という風に考えられているので、現代は否応なく、みんながおんなじになるように仕組まれています。

食べ物を見ると、世界的にマクドナルドに代表されるファーストフードが気になります。かなりの量が食べられているはずです。私は土居で生活していますが、ドイツにはマクドナルドをはるかに超える超ファーストフードがあります。ドイツではブレッツェルというアルカリ製の液体に一度浸して焼くパンをマクドナルドの何倍も食べます。茶色い膜でコーティングされそれに塩をかけたパンです。この味が味覚の中心に位置しているに違いありません。これを食事がわりに食べているドイツ人はとても幸せそうですが、これが食事かと思うと俄然となってしまうこともあります。

違うとおんなじは対立しています。ところが人間というのは、自然な形で上手くこの二つを両立させているものです。つまりおんなじが楽しかったり、違いが楽しかったりという具合にです。
均衡が取れていれば問題はないのでしょうが、どつらかに偏るととても醜い姿を見せてしまいます。
政治的にはファシズムや共産主義社会がおんなじをやたらと強制します。病気だからしょうがないと言えばそれまでですが、醜いです。みんなで一緒にというのがスローガンとして見えたり隠れたりしているうちはまだ健全の内ですが、刑務所が後ろに控えている様な社会体制の中で強制されたおんなじは危険です。そこまで傾いたら社会は病気です。

離婚歴の多いドイツの友人を見ていると、同じような伴侶を性懲りも無く選んでくるパターンの方が主流のように見えます。また、なんで、おんなじ様な人と一緒になるんだろうと首を下敷けています。全く違うタイプの相手を選ぶというのは、私の知る限り例外です。理由でもあるのでしょうか。せっかく別れたのなら、全くとは言わなくても違うタイプの伴侶を選んだ方が、違う人生が楽しめそうだと考えるのは、離婚歴のない人間の呟きに過ぎないのでしょうか。

エゴは自我へと発展できるのか

2021年10月29日

玉ねぎの話を続けます。
玉ねぎ的な人間を想像してみてください。
玉ねぎ人間の話です。

とはいえ初めはエゴについてです。
エゴという言葉は、エゴだけで登場することはなく、今日ではエゴから派生したエゴイストと言う使い方をされることが一番多いと思います。ですから、ほとんどがよくない意味で使われています。
ところがそもそもエゴはラテン語で自分のこと、英語の「I(アイ)」ですから、自分をニュートラルに指す意味なのです。従って良くも悪くも、自分以上でも自分以下でもないものです。
では何故エゴイズムとかエゴイストという方にばかりエゴはいつてしまったのでしょうか。
いい意味でのエゴはどこにあるのでしょうか。

エゴイストというのは、自分中心に自分のことしか考えない人のことです。日本語に訳せば自分中心主義者です。
エゴはこんなふうに変形して生き延びたとも言えます。
私はそれだけでなく、自己主張という要素もエゴイストにはあるとみています。外に向かって自分を主張するのです。自分の考え、意見を主張することから始まります。自分の考え、意見というのは自分の所有物です。ということは自分の所有を、所有地を広げてゆくこともエゴイストの仕事で、ここまでくるとすぐに戦争のことが思いつきます。戦争の一番の根本はエゴイストだったのです。個人的な意味でのエゴイストではなく、国家というレベルにまで膨らんだエゴイストのなせる仕業ということです。エゴはただの自分を指しているものから発展して、国家規模で戦争をするほどのものに膨らんでゆきました。
エゴとエゴイズムの間は深いです。そこに成長という亡霊のようなものが見えます。エゴはニュートラルですが、エゴイストには人間の持つ「業」、「性」が付き纏っています。エゴイストを支えているのは、心理学的に言えば自分を大きく見せたいという潜在意識と言えるものです。いずれにしろエゴイストはエゴが異常に膨らんだものだと言えそうです。

成長を見ていると初めは大きくなってゆくものです。子どもから大人になるときは体が大きくなります。肉体的な大きさだけでなく、それに伴ってできること、能力的にもどんどんついてきます。運動能力にしても、言語的なもの、思考的なもの、技能的なものがついてきて、大きくなってゆく感じがします。大人になるのです。
習い事をしても成長があって、初めはどんどんできるようになってゆくものなのですがあるところまでゆくと成長は止まってしまいます。体も同じで、成長が止まったその時からは大きくなりません。早熟の人はすでに子どもの段階で成長が止まってしまうこともあります。大きくなるという成長はいつか止まる物なのです。
さて成長が止まって、つまり大きくなるという成長が終わったら、次に何がくるのでしょうか。エゴで言えば、もうこれ以上エゴイストではいられなくなったようなものです。
楽器を習う時を例にとれば、初めは目に見えて上手くなってゆくものです。できることが増えてゆくのですが、あるところまで来ると技術的な成長が見られなくなります。目に見える成長がなくなるということです。ピタッと止まってしまうものです。
その時、次の成長はどのように展開するのでしょうか。

ここで内面化と言われているものに登場してもらいます。簡単に言えば、見えない成長ということです。
もちろん技術的な成長にこだわっている人だっているのですが、その人たちは技術がアクロバット的なものになって、異表をついて聞き手を驚かすようにはなりますが、音楽的な感動を呼ぶのとは別の仕事になっています。

人間玉ねぎの成長はどうなるのでしよう。どんどん皮が増えてゆくようなものです。それに伴って形もどんどん大きくなってゆきます。しかしその玉ねぎがおいしいかというと首を傾げたくなります。きっとその玉ねぎは買わないと思います。大味のする玉ねぎのような気がするからです。
しかも野菜は本来の成長が止まってしまうと内側から腐り始めます。もしかしたらエゴイストで膨らみすぎた人間玉ねぎも、膨らむ限界まで来た時には、内側から腐り始めているのかもしれません。将来人間玉ねぎの社会は腐って無くなってしまうのかもしれません。いや、将来なんて言わずに、もしかしたら既に始まっていることなのかもしれません。

そこで内面化の登場です。腐り始める前に内面に新しい力が生まれれば、人間玉ねぎは腐らないで次の成長に進むことができます。人間玉ねぎは野菜の玉ねぎとは違いますから、自分で腐るのを止めることができるのです。
ところで内面化って何なのでしょう。
エゴイスト的成長は目に見えるものでしたがこの内面化という成長は目に見えないものです。人間玉ねぎの中で始まっているのですから外からはそこでの変化に気がつきません。
ただ一つ、外から見えるものがあります。
内面化し始めた人間玉ねぎは皮を捨て去って小さくなってゆくものです。内面化が進むと人間玉ねぎはどんどん小さくなつて元気になってゆきます。そこではエゴイストに見られた自己主張とは反対のものが生まれています。
もちろん皆さんが知っている例のアレです。

玉葱と猿、自我のことについて

2021年10月28日

自分だと思っているものが幻想だとしたら皆さんはどうなさいますか。
思い込みの産物だとしたら。
ぼんやりしている時、小春日和ののんびりした午後のひと時に「自分ってなんだろう」なんて考えていたら、幻想の中に消えてしまうかもしれないのです。

もう二十年くらい前になります。講演会のテーマに「自分探し」が頻繁に持ち出されてきて困ったことがあります。自分って探して見つかるものなのだろうかと思っていたし、そもそも自分というものなんて探して見つかるものではないと思っていたので、このテーマでやるのなら講演会はお断りしますと丁重にお返事しました。

お猿さんに玉葱をあげたらお猿さんはきっと怒るだろうからあげてはいけないと親に言われていました。
お猿さんは玉葱を剥くだけ剥いて最後に何も残らないので怒るのだと言うのが説明でした。
実際にやったことがないまま今日まで来てしまいましたが、今でもやってみたい悪戯の一つです。ただ動物園側は「餌をあげないでください」と言うわけで、この実験は今のところお預けになっています。
人間が猿から進化したものだと言うのは、ただそう言われているだけのような気がするのですが、この玉葱のことを考えると、人間も結構同じことをしているので、遠いい親戚ぐらいの関係はあるのかもしれません。人間の場合は「私と言う人番は・・」という層を何枚も剥がしたり、「自分」とか「自我」とかいう抽象的な概念を持ち出してきます。そこが知性で勝る人間の人間である証なのかもしれませんが、私が見る限り基本的には同じことをやっているように思えてならないのです。自分と言う皮をいくら剥いて行っても何も残らないと言うことです。
ただその時、自分と期待していたものが何もでこないことで腹を立てるか、そういうものなのだと納得するかの二派があると思います。皆さんはどちらですか。

「我思う故に我あり」をシュタイナーは手厳しく批判して、思っているとき、想念の妄想の中に現実の自分を置くことは意味がないと言います。考えた自分と現実の自分の間には超えられない溝があるからです。頭で考えた自分は、固まっているもので、過去を整理しただけのものだからでしょう。それに引き換え現実の自分は未だ実現していないものに向かっているものなので、搗き立てのお餅みたいなもので、如何様にも形が作れるものです。

人間はこの二つの間を行き来して、自分とはと言っているのでしょう。