飽きるということ

2021年11月12日

飽きるということについて書いてみます。
子どもの頃は、飽きっぽいことはよくないものと思っていました。いや、思わされていたと思います。なんでも頑張って長続きする方がいいに決まっていました。
周囲からそういう雰囲気のことがいつも言われていたからです。
ずっと大人になって、飽きるというのはなかなか上等なことなのだと悟ったのです。

飽きるというのは、食べ飽きたとか聞き飽きたとかいうふうに言います。「もういいや」ということです。
英語では特に飽きるという言葉がないようで、疲れたとか、もう十分だとか、あるいは飽和状態という感じでその雰囲気を伝えようとしています。ドイツ語も似たり寄ったりです。

日本語では他にうんざりするとか、嫌になる程する、ということのようで、広辞苑によると、昔は今の漢字とは違って「厭」を使っていた様です。嫌気がさすというのも一種の飽きるなんでしょうか。

天才の天才たる所以は努力することにあるらしいのです。もともと天才というのがあるのではなく、努力が天才を生むということの様です。飽きることなく続けられる、まさに天才です。
才能のある子どもというのは掃いて捨てるほどいますが、才能を開花させられるのはそのうちのほんの僅かで、大抵は中途で息切れしてしまうものです。持続は力なりとも言います。続けることに大きな意味があるのだと言わんばかりですから、飽きっぽい人には耳の痛い話です。
私は飽きることを特別悪いことだとは思っていませんが、ちっと手を付けただけで放り出してしまうのはやはり勿体無いと思います。「飽きるまでやったらどうですか」と助言したくなります。「飽きてやめる」って結構手応えのある決断です。「もういい」「これ以上はダメだ」という感触は案外貴重です。特に自分で判断しているところが貴重で、先生が言うから、親が言うからダラダラ続けているよりはずっと評価します。つまり自分の限界を感じているということです。

実は最近、飽きを感じるものがだんだん目立つ様になってきているのです。もういいや、という感じです。十分にやったという充実感があるわけではないのですが、これ以上やっても無駄かなぁという感じはしています。つまり限界まできたということです。

その中に音楽があります。音楽を聴いていて、「もう音楽を聞かなくてもいいか」と微かにですが脳裏をかすめます。何を聴いても昔ほどワクワクしなくなっています。なんで人間はこんなもの、音楽のことです、を持っているのだろうと真剣に考えることがあります。絵画も同じです。昔から絵を見てもそんなにワクワクする方ではなかったのですが、最近はどんどんひどくなっていて、絵を見るのが苦痛になることもあるほどです。
一体何が自分の中に起こっているのか、わかりません。三度の飯よりも音楽を聴くことが好きだったのに、今はなんで音楽なんてものがあるんだろうと考えられるところまで来てしまったのですから、飽きるということを立派なことだと認めないとやってゆけません。
このままいったらいつの日か「生きることにも飽きた」なんて言い出すのでしょうか。それとも飽きた後に何か別のものがくるのでしょうか。全く未知の世界でわからないことだらけですが、正直、少し楽しみでもあります。

倫理は怖いものに変化することもあります

2021年11月9日

倫理は確かにあります。あると信じています。ところが倫理がどこにあるのかというと、はっきり言えません。見えない力とでも言っておきます。
その見えない力は人の行動の中に、人の判断の中に見られます。生き方を、人格を貫いているものです。
そんなに確かなものなのに見えないのです。手応えもありません。

倫理は習得できるものなのでしょうか。
私はできないと言います。
精神修行をすることは倫理とどう関係するのでしょう。
直接関係はないように見えます。

百メートル走を毎日練習すれば誰でも10秒で走れる様になるのかというと、そうはならないのと同じです。
センスの問題です。洋服のセンスの様なもので、持っている人と持っていない人に分かれます。倫理もちょっと似ています。
倫理のセンスのない人と話していると、共通するものを感じます。
他人の話が聞ける聞けないのレベルではなく、徹頭徹尾自分勝手なタイプで、ナルシストです。感情に振り回されている心に基準のない人です。

一見誰にでも備わっている様に思われがちですが、倫理はセンスであり能力に近いものなので、たくさん持っている人、ほとんど持っていない人と人様々です。
訓練とか練習がほとんど役に立たない掴みどころのない世界からのものです。
料理のセンス、洋服のセンス、会話のセンスなどと同じで持っているか持っていないかで分かれてしまうところがあります。

ただ倫理を形にして、いわゆる道徳とか、修身のように行動原理にすれば、みんなが感じられるものになることもありますが、それではもうすっかり倫理から離れて、気持ち悪いものが一人歩きしているだけです。

もう一つ。倫理は強制する力と変化するとグロテスクなものになります。
グロテスクで終わればいいですが、高揚すると暴力になります。倫理が暴力とかした時ほど怖いものはありません。人間だけでなく、社会も振り回すことになります。
パワハラ、パワーハラスメントの根底にあるのも倫理の暴走だと考えるのですが。違いますか。

ものづくりの基本

2021年11月7日

二番目の息子の奥さんの父親は非常に手広く活躍した建築家です。75歳ですから、大学の方は退職し、建築事務所の方も娘さんに半分は引き渡しているので、現役のバリバリとは言えませんが、リタイヤーしているわけではなく今でもぼちぼち活躍していると言えます。
シュトゥットガルトに本社があるベンツの博物館の内装を始め、同じくシュトゥットガルトを本拠地としているポルシェの博物館の内装も彼の設計で、それを機に世界中のベンツ博物館のポルシェ博物館の内装を手掛けました。中国、韓国でも作っています。
彼の願いは日本で仕事をすることなのですが、彼曰く「日本には優秀な建築家がたくさんいるので、俺の出る幕はないんだ」ということです。でも日本贔屓ですから、何度も日本に行っていて、その度にたくさんいいものを買ってくるので、「日本にゆくたびに貧乏になってしまう」ということです。
最後の大きな仕事はベルリンのオペラハウスの大改造の責任者として見事なオペラハウスを、音楽監督を担当したダニエル・バーレンボイムと共同で仕上げました。

何が言いたいのかはこれからです。
その彼はなんでも自分でする人だというのが今日の話の本題です。
掃除・洗濯・裁縫・料理等々、自分でやることと決めているのですが、別に「男でもできるのだ」と気負っているわけではなく、ごく普通に、淡々とやっているのです。料理に至っては本職顔負けの腕前ですから、一度食べたらまた食べたくなるほどのものです。
なぜ彼がなんでもする様になったのかがなかなか面白いところです。
例えば、建物の内装を設計するときに、彼は必ず掃除をどうするのかまで考えるわけです。あるいは自分でカーテンを縫ってみると、仕事としてカーテンを考える時、材質、柄などを自分て決められるのです。建築というと建物を設計する人というイメージですが、彼はきめ細かに、使う人の立場から、掃除をする人の立場まで考えてものづくりをしているのです。パイプの煙を燻らせながら色々なことを淡々と話してくれます。ものづくりの精神は結局は一つなのだと彼と話をしているとつくづく感じます。

ある時、有名建築家が設計した家に住んだ人の話を聞いたのですが、実に悲惨な話でした。外からの見栄えはいいのですが、使い勝手の悪さからすると「最悪」なのだそうです。
階段ひとつにしてもデザイン階段ですから登り下りには全く向いていないということでした。台所とお風呂場の水の流れが悪く何度も水漏れにあったとか、雨漏りまであると聞いた時には、設計士は何を考えて建物を作ろうとしているのかと首を傾げてしまいました。

ものづくりは無意識に哲学をしていると思うことがあります。
哲学は、今日では学問ということになっていますが、実は学問などではないものです。学問にして学問に非ずと言ったらいいと思います。ただ哲学者というと、苦虫を噛み潰したような難しい顔をしているイメージですが、内面では考えることを楽しんでいるのです。
哲学から遊び心がなくなったら、それはもう合目的に辻褄を合わせているだけですから、実用のための思考で哲学ではありません。さらに哲学にはユーモアが欠かせません。
真剣に考えるのは哲学にちょっと似た神学系です。ここには遊びがなく、ユーモアもなく、殺風景です。

ものづくりをしていると、何を作るかなんてどうでもいいのです、作るという時、大真面目なのに遊び心が鍛えられていると感じます。この遊び心がないと作ったもに喜びが感じられない様な気がします。真面目だと、自分で作ったものを「これでよし」とは言えないでしょう。旧約聖書の創世記で、神様が地球を作ってゆく時に、色々とできたものをみながら、「これでよし」というのですが、神様も実は懐が深くユーモアも遊び心もある様です。

最後に個人的なことを言います。
食事はあれこれと講釈、解釈が並べられたものを食べさせられると、体に入った時にずっしりと重くなって疲れてしまいます。今までに何度も経験しています。
反対に作る人が真剣にでも楽しんで作ったものはふわっと軽みがあり、思わず「美味しかった」と言ってしまいます。