お能の翁。儀式の大切さ。

2021年4月30日

お能の演目に「翁(おきな)」というのがあります。演目とは言っても「能にして能にあらず」と言われて特別扱いです。他の演目のようにきっきりしたストーリーがあるものではないことからそのように言われるのではありません。立派な理由があるのです。それは翁は神歌だからなのです。

神歌ということは儀式だということです。ちなみに冒頭のところを見てみると、

とうとうたらりたらりら

たらりあがりららりとう

ちりやたらりたらりら

たらりあがりららりとう・・・

何が何だかわかりません。神降ろしのための曼荼羅なのでしょう。言葉というより言霊が直に響いていると言える響きです。異次元空間を呼び降ろすための儀式そのもののような始まりです。

少し横道にそれますが、能管という横笛があります。能の囃子は四人で、小鼓、大鼓、太鼓そして能管です。この囃子方は、驚くことなかれみんな打楽器とみなされています。能管は笛ですが打楽器なのです。メロディーのための笛というイメージとはかけ離れたものです。そもそもは石に空いた穴に息を吹き込んで鳴らす石笛に由来するもので、私たちの周りにある異次元を呼び降ろし、私たちと結びつけるための合図だったのです。

 

お能は翁から始まるのです。これは能という演劇の行われる場、空間を作るために儀式が必要だからなのです。全ての儀式の基本に通じるものと考えていいと思います。儀式というのは異次元のものとをつなく役割を担っているものですから、これ無くして演劇という特殊な空間を作る出すことができないと考えていたのだと思います。

 

日本の柔道も剣道も合気道も他の如何なる武道は、一礼から始まりますが、これも簡略化されているとはいえ、空間に向かってこれから試合が始まることを報告すると同時に、感謝の気持ちをこめて行う儀式なのです。最近見た柔道の世界選手権ではとってつけた、頭をぺこっと下げた礼ばかりが目につきました。これでは場は作れませんし、空間への感謝もないので、これから喧嘩が始まるぞと言っているようなものにしか見えませんでした。

 

私たちは大半を日常生活の中にいても、人生というのは本来は同時に異次元とも繋がっているのではないかと思うのです。音楽に喜びを感じたり、美しい絵に感動したり、お花を活けたりという、いわゆる芸術や美の世界は、異次元と呼んでいもののように思うのです。日常生活の中での損得、打算、合理性だけが生きることの目的だと考えられるようになってしまえば、人生は枯渇してしまいます。

日常生活の中に小さな儀式のようなものを作ってはどうなのでしょうか。シュタイナーは瞑想として、一日に五分でもいいから、全く日常生活と関係のないことを思い描くことを勧めています。私は一日に一度はゆっくりとお茶を飲む時間を作るようにしています。何も考えずに、本や新聞など読まずに、ぼんやりとお茶の香りと味の中に気持ちを沈めるのです。瞑想とは程遠いいですが、私が一番好きな時間です。

ハイドンが聞いた音霊(おとだま)

2021年4月29日

ハイドンのヴァイオリン協奏曲一番ハ長長の第二楽章は既に紹介したことがあります。私がよく聴く音楽です。特に心を落ち着けたいときにを聞きます。シンプルな波のような音の動きに気持ちを乗せていると、嫌なこともいつしか消えてしまうのです。

この曲の圧巻は単純な音階にあります。ドレミファソラシドで始まってドレミファソラシドで終わります。こんなシンプルなことがどういう発想から生まれたのでしょう。こんなことが音楽の中で起こってしまったんだと、驚いています。ハイドンがなし得た正真正銘の驚異です、驚異としか言えません。誰もが知っているドレミファソラシドです。西洋音楽の基礎の中の基礎です。これを一つの作品のモチーフにしてしまうのです。この恐るべきシンプルさがハイドンです。ハイドンを聴く醍醐味はこのシンプルさに尽きます。

ドレミファソラシドを聴いていると心の澱みが沈澱してゆきます。西洋音楽がたどり着いた音階には透明感があったのです。ハイドンにこのことを教えてもらいました。無駄を拭い去ってできたという印象を持ちます。ある意味では透明であるが故に冷たさも否めないのですが、ハイドンには暖かさと温もりがあります。

ドレミファソラシドを聴いていると、とは言ってもドレミファソラシドだけを聴くことというのはほとんどないので、正直言うとこの曲で初めてしみじみとドレミファソラシドを聴いた訳ですが、私の心の中に蟠っているものが洗い流されているのです。心が洗われるというのはこういうことを言うのでしょう。音楽の持つ力に改めて感動します。

ドレミファソラシドは音楽の音霊(おとだま)が重なり合ったものだと思います。別々の音が一つ一つ連なっているのです。その一つ一つは自らの命を持って聞き手の心に入り込んできます。それぞれの音には命がある、つまり音霊があって、それが音楽を作るのです。

この単純なことに気付かされたのです。それがとても嬉しいのです。

 

 

 

 

ケチについて

2021年4月29日

経済のことを経済学者たちが述べているときに、人間の根本にあるケチについて一言も触れないことがいつも不思議でなりません。経済は社会に還元されなければならないからなのでしょうが、経済の問題に人間のケチがどのように関与しているのかは論じる隙間もないようなのです。私は単純にケチが克服できれば経済学なんてなくても、社会はうまくゆくように思うのです。

それともケチに触れては困る何かがあるとでもいうのでしょうか。

人間みんなケチです。それはみんな自分を見ればわかることです。心からお振舞いで生きている人は極めて稀です。ケチ同士がなんとか辻褄の合うような経済を作るのですから、うまくゆくはずがないと考えるのは不謹慎でしょうか。

ケチ、ケチ根性を克服するなんて気が遠くなるような話です。自分を見ればわかります。皆んながお振舞いの精神で生きていたら、社会がどんなにか豊かなのにと思います。そうすれば経済学なんて生まれていなかったに違いありません。

私たち人間はどうしてケチなんでしょう。

人間がケチになった理由があるんだと思います。それはきっと個人の所有が社会に登場したことが原因だと想像します。それ以前はケチである必要などないからです。個人の所有は決定的な役割を果たしています。

守りの姿勢からケチが生まれたのです。自己防御という諸悪の根源のような姿勢です。

ケチはさまざまな影響力を及ぼしました。人間が一人一人の意見を持つのはいいことだと言われていますが、意見と言うのも所有からの影響で生まれたものです。討論会、デイスカッションなどでは意見を交換すると言いながらも結局は自己主張と自己防衛をしているだけです。創造的なものではないのです。

しっかりと意見を持って生きるというのが今では当たり前で、そこから個性が生まれ、個性が輝き、個人主義という考え方が定着するようになったのです。最後は民主主義が生まれました。それを支えているのが選挙です。選挙の際の一票は民主主義の証です。

余談ですが、最近では選挙はいつも不正が罷り通るのですから、個人の一票は踏みにじまれているという訳です。もう個人主義も民主主義も見掛け倒しもいいところです。

 

西洋的個人主義とケチは表裏一体です。これが続く限りケチは続くでしょうから、しばらくはケチから解放されないのかもしれません。しかしです、返す返す残念なのは、なぜ人間は個人の所有という落とし穴に落ちてしまったのかということです。

そんな中で心底お振舞いで生きている人に出会うと心が晴々とします。どうせ生きるのなら個性だ、個人だ、チケだと威張るよりお振舞いで生きた方が人生が広がりそうです。