平和とはなんですか

2021年4月29日

平和という言葉はよく使われるだけでなく好んで使われています。でも私には正直さの感じられない怪しい言葉で好きになれません。平和を願うとか、平和記念館、平和のためのデモとか、平和式典。よく目にするのですが、この言葉には後味の悪い影があります。その影には思惑と言っていいものを感じます。政治的な欺瞞によつて作られているからでしょう。ノーベル平和賞はまさにその愚の骨頂ようなものと言ったら不謹慎だと言われるかもしれませんが、平和の意味を考えてみれば、さらに平和という言葉が悪用されていることを見れば、それほど不謹慎ではないことがお分かりいただけると思います。

平和を祀り立てているのは戦争をすることが前提になっているということです。

平和とは戦争をしないようにするということでしかないのです。平和、平和と叫んでいる背後には戦争を仕掛けている何かがあるように思えてならないのです。平和は戦争の落とし子なのです。

平和運動をしている団体の財務をやっていた人から聞いたところでは、運動を維持するお金がどこからか来るのだそうです。

 

平和なんかよりもみんなが心安らかに生きていればいいのではないかと思うのですが、それでは戦争を止めるには力不足なのでしょうか。

 

 

笑いの秘密

2021年4月27日

感情表現の代表格はなんと言っても泣きと笑いです。

泣くと言うのは民族的な違いをあまり感じないのですが、笑いの方は民族や文化によってずいぶん異なります。日本の中でも関東と関西では全くと言っていいほど違いますが、ドイツと日本では笑い方が相当違います。

オランダ人に「世界で一番薄い本は何か」と聞かれて答えられずに口籠っていたら「ドイツ人のユーモアさ」と言われました。ドイツ人はあまり笑わないと言う印象を持っていたのでさもありなんと納得してしまいました。あんまり笑うと安っぽく見られるという人もいました。必要以上には笑わないと言うことのようです。苦虫を噛み潰したような顔をしている人も随分います。

 

関西では指鉄砲で「ペン」と撃たれたら、「やられた」とすかさずうずくまるなりして反応しなければなりません。こんなことを改めて書く必要がないほど関西では当たり前なのです。わざわざ書く私はもちろん関東人だからです。一年ぶりに京都田辺の友人を訪ねて会食しているときにお嬢さんに「ペン」と指鉄砲で撃たれてなんの反応もしなかったら、「もう忘れてる」と怒られてしまいました。ところが、関東人の私は関西を離れた瞬間に「ペン」は頭からすぐに消え去ってしまうのです。何度教えられても「また忘れてる」の繰り返しです。

大阪の友人のお嬢さんに関東人と結婚できるかどうか聞いたとき「ダメでしょうね」と間髪を入れずに返事が返ってきて、びっくりしました。「なぜ」と尋ねたら、「笑うところが違うから」と言う答えが返ってきました。笑うと言うのは単なる日常生活の潤滑油ではなく、結婚を決めるときの判断材料になるほど精神生活を反映しているようです。

関西の落語と関東の落語は同じ落語とは言うものの別物だと思うことがあります。関西の方が直接笑いを誘い出そうとしますが、関東は結構高飛車に構えて、周りみちをするように笑わせます。

受けと突っ込みは関東にないものです。これはある種思考方法と言ってもいいくらいのもので、コミュニケーションの基礎を作っています。関西では電車の中が関東と比べると何倍かわかりませんが賑やかです。ただ最近は関西も携帯の影響下にあるようで、以前より静かになったと感じたことがあります。

 

真面目な人は笑わない傾向があります。ドイツ人が笑わないのはこの真面目というのと関係しています。ヘラヘラ笑ってばかりいると、確かに薄っぺらな印象を人に与えかねないですが、笑わないというクソ真面目な堅物も逆の意味で薄っぺらです。

笑うと解放されると同時に、体の中に溜まった毒素のようなものを放出しているようです。癌には笑いが効果的だと思っている人は多いです。笑いセラフィーは随分普及しています。ただ不自然な笑いは逆に自律神経を壊します。

だーるまさん、だーるまさん睨めっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷっ。この遊びは子どもの頃よくやったものです。自分の感情をコントロールしている人が強いようです。イギリスのポーカーフェイスという文化に通じているのでしょうか。

笑いたいときに自然に笑いたいものです。面白いときに笑いが出ます。面白いかどうかを決めているのは自分です。周りのものをたくさん面白いと決めればたくさん笑えるということです。

音楽と品性、音楽と宇宙

2021年4月26日

音楽と品性とは食い合わせのような関係かもしれないと思っています。

さて、品性からです。

そもそも品性とか上品とはなんで、それはどこから来るものなのでしょう。

味覚の世界では「上品な味」というと、基本の四味と言われている味の要素が強く主張しないで控えめに調和した味、つまり旨味ということだと理解しています。薄味ならいいのかと言うとそれは違います。味というのは舌の上を心地よく通過してゆく存在感が必要です。そうでないと味がボケてしまいます。存在感があっても主張がない調和した味が品のある味です。

人間の場合は社会的に重要なポストにあるとか、能力的に優れているとか、お金持ちだというだけでは品格は生まれません。人格とともにあるものです。謙虚というのがここで登場します。社会的に偉くても謙虚で、特別な能力があっても控えめということが基本になります。謙ると言う姿勢です。

こうしてみると味覚の場合も人間の場合もよく似ているような感じがします。

 

では音楽はどうでしょう。上品な演奏というのはあるのでしょうか。謙虚で控えめな演奏が上品な演奏と言えるとして、音楽で上品さは求められているのかどうかが疑問です。そのためでしょうか今まで上品な演奏ということはあまり考えたことがありませんでした。

西洋のクラシック音楽の本流は表現という主張です。何も表現していない音楽は芸術とは言えないと西洋では考えていると思います。控えめに主張できたらいいのでしょうが、表現しないで表現するというのは矛盾です。ということは控えめ、謙りはこのジャンルの音楽には禁物だと言えるのかもしれません。

以前にも音楽で大事なこととして述べた「弾きすぎない」は多くの音楽家が認めている音楽の基本です。しかし控えめまで行くと主張が聞こえなくなってしまいますから、控えめは禁物です。と言うことで、音楽にあってはどこに上品さを探したらいいのでしょう。

私がライアーを弾く時は、いつも全力で弾いています。それは主張とは別です。とにかく力一杯弦を弾きます。大きな音の時はもちろんですが小さな音も全力で弾いています。全力で弾かないと音がうるさくなってしまいます。おかしな言い方をすると思われるかもしれませんが、音というのは音量でうるさいかどうかが決まるのではなく、そこに込められた気持ち、イメージによるので、全力で気持ちをこめると、大きな音でも聞き手には静かな音として捉えられるのです。主張しない表現もまんざら不可能ではないのかもしれません。

とはいえ演奏を表現として生かすので、ライアーと言えども表現からは離れられません。ここがいつも私が悩んでいるところです。表現しないで表現するなんて技がまだ私にはないからです。

 

西洋のクラシック音楽から表現を取ったらどうなるでしょう。残念ながらクラシック音楽の本質が消えてしまうのではないかと思います。

しかし伝統的なクラシック音楽からいわゆる現代音楽と呼ばれる音楽に移行したときに、ここでいう表現という課題が浮き彫りになりました。表現にこだわることから離れて行ったと言えるかもしれません。主張でない表現と言えるかもしれません

響の集まりのようなものも音楽として認められるようになったのです。それまでは雑音扱いされていました。

最近は瞑想音楽もよく聞かれます。無重力な、表現も主張もない音楽と言ってもいいかもしれません。思考を停止させる力があるようです。

さらに音のヘルツが大切だと言うことで、特別のヘルツで音楽をするようになってきました。音楽が宇宙の響きとして捉えられるようになり、今までの人格的な音楽から宇宙格的と言ったらいいものに移行しているのかもしれません。音楽は品性を問われることなく、宇宙に飛び出してしまったような感があります。