2021年4月26日
直感を磨くには繰り返すことがいいと考えています。何も考えないでもできるようになるまで技を磨くということですが、これは慣れにも通じるものです。慣れたことはあまり考えないでもできます。慣れるまで繰り返すことがいいのでしょうが、そこには危ない落とし穴が待っています。
ということは直感は慣れと同じものなのかということになりますが、私は同じではないと考えています。
ここのところをはっきりさせると面白い世界が見えてきそうです。
ハンツ・ホッターというドイツの歌手のマイスターコースを会場で何度か見ました。いや聞きました。当時すでに八十歳を超えていたのですが、声は未だ衰えておらずみずみずしい透明な声でした。彼は「人前で歌うには少なくとも百回は歌ってからにしなさい」と、くりかえに若い人たちに言っていました。「体に馴染んでいなものは聞くのが辛いものです」ということでした。
最近みている有名レストランのシェフが作るYouTubeの料理の動画で、シェフが作る手慣れた料理は見た目がとても美味しそうに出来上がっています。食べたらきっと美味しいのでしょう。包丁の持ち方、野菜を刻むときのリズム、混ぜるときの手際良さ、何をとっても熟練を感じるものはみんな美しいです。大工さんをはじめ職人さん達の仕事っぷりも同じです。体に染み込んだものが溢れ出ている仕事は見ていて気持ちがいいものです。そして思わず自分でもあのくらいのことならできるかも、なんて思ってしまうほどです。
慣れてしまうとマンネリにならないかと心配するのは素人だからです。プロは初心忘るべからずを知っていますから、繰り返しで技を深めたからといって手を抜くことはなく、やればやるほど、技を磨けば磨くほど難しさがわかってくることを知っているのです。上手になるというのが落とし穴だということもです。
ある料理人が雑誌の編集者から後世に残したい逸品を作って欲しいと依頼されました。それをどのように作るのか食材を探して回っている中で何を作るかが煮詰まり、食材を見ながら何を作るかが決まったら、試作品などは作らず取材の日にぶっつけ本番で作り始めたのです。彼曰く「試作品なんて作ったら本番でいいものができない」。まさに慣れを超えた直感のことをよく知っていたのです。
これは料理を作り続けた人間だけができることです。同じ料理を何度も作り、そこで料理の本質を極めた人だけが言えることです。繰り返し繰り返し作ってきた中で磨かれたものを知っているのです。それは慣れとかマンネリという次元を超えるのです。そしてそこに至って直感の世界から授かれるものがあるのです。
繰り返しても、繰り返しても慣れに陥らないという不思議な世界を体得した人たちがいるのです。
普通の意味で、繰り返すことで私たちは自信を得ます。慣れるということで自分という器を作っているとも言えます。しかし最後はその器を乗り越えなければ一人前とは言えないのです。
八十歳を超えたホッターが恋の歌を歌った時のことです。その歌を選んでホッターに聞いてもらっている青年が歌い終わると「こんな風にも歌えるのですよ」と彼が歌い出しました。その時、私は鳥肌が立ちました。そして隣に座っている人の顔を思わず見てしまったのです。隣の人も私の方を向いていて一緒に無言でうなづいてしまいました。老いらくの恋とでもいうのか青年が歌う普通の恋の歌の何倍も色っぽいのです。恋歌を歌おうととらわれているのでしょう、それではまだまだ利き手には伝わらないものです。
若い歌はまだ形にとらわれています。ところが直感になるは自由自在です。八十を超えた老人の恋心を測る物差しなどないのです。
直感を測る物差しなどないのです。
2021年4月25日
人間の中にはもともと、世界観派とイデオロギー派があるのかもしれません。
世界観は矛盾を受け入れますが、イデオロギーは矛盾したものを排斥します。
ヨーロッパの歴史は、大きな流れで見ると、イデオロギーがぶつかりあった歴史のような気がするのです。イデオロギーによる権力闘争の歴史です。
世界の主な宗教(三代宗教)はユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。仏教はその系列からは漏れて、宗教というよりは世界観のような気がします。それゆえに、キリスト教の修道院で、禅の講習会のようなものが頻繁に行われるのでしょう。イスラム的瞑想のようなものはキリスト教の修道院には入り込めないのです。キリスト教とイスラム教がともに根っことしている旧約聖書のユダヤ教では、自分の宗教以外を皆殺しにしろと言って憚らないわけです。これは仏教にはありえない考え方です。
日本が西洋を本格的に取り入れた明治以降日本はイデオロギーでものを考えるようになったと言えるのかもしれません。それが近代的だと考えた人たちはそれをどんどん広めてゆきました。イデオロギーで考えない人間は古いと言って排斥していったとも言えます。それはまるで植民地化された地域が母国語を使うことを禁じられたようにです。そしていつしかその言葉は退化してしまいまい、消えてしまうのです。
今の、多くの日本人はイデオロギーで物事を整理しようとします。合理的に整理できて便利なものだとみられているからです。学問、特に思想的な分野にはイデオロギー派が多く、あるイデオロギーが権威的な力を持つと、それ以外の考え方を排斥し始めます。その権威になったイデオロギー以外は居場所がなくなってしまうのです。これが政治権力と結びついた日には目も当てられない社会状況が生じます。
イデオロギーで考えるようになると、なんでも説明がついてしまう錯覚に陥ります。人間はだんだん考えなくなってしまいますから、それは思考の退化に他なりません。最近「人間の建設」という岡潔と小林秀雄の対談を読み返していて、二人が別の観点から「今の人間は知力が低下している」と言っているのが印象的でした。特に岡潔が「数学が抽象的になってしまった」「数学から感情が無くなった」と言うくだりは目から鱗でした。
知力というのはさまざまな矛盾の中から鍛えられてゆくものだと考えていますから、矛盾の排除は、結果として知力を低下させてしまいます。
真っ白いキャバすに向かってドキドキしながら絵を描くのではなく、あらかじめ線で描かれたものに色を塗ってゆく、塗り絵的になってしまうと、絵の醍醐味は薄れてしまうものです。出来上がった塗り絵の絵は基本的にはおんなじ絵なのではないのでしょうか。
2021年4月24日
世界観とイデオロギーとはずいぶん違うものだと考えています。
イデオロギーは、私たちが理解しやすいものを持っているようですが、世界観というとなんとなく焦点が合わず、ぼんやりしたものに見えてしまう傾向があります。これは近世に入ってイデオロギーが誕生し、私たちはその延長を生きているからなのです。
これをデカルトの「我思う故に我あり」というのを見ながら考えてみたいと思います。
この言葉ほど人間を狂わせた言葉はないかもしれない、私はそう思っています。健全なもの、世界観というものが崩壊したのです。宇宙とか世界とかが存在していることを、我ありという自分中心の自己満足に置き換えてしまったからです。
哲学はギリシャで生まれたと言われていますが、元々は「知恵を愛する」ことで、物事を自分の都合で説明したりするものではなかったのです。説明から自己満足が始まります。ここでいう思う、つまり思考するというのは自分で世界を、宇宙を説明したつもりになっているということで、まるっきし自己満足です。頭の中でぐるぐる空回りしそうな感じです。自分の思い込みの中で自分は存在しているという自己中心的なイデオロギーは、ギリシャの哲学にはなかったものです。それこそがその時に始まるイデオロギーとか、極端な危険思想の姿なのです。デカルトのこの言葉から近代哲学が始まったと言われていますが、そうなると人間はここからイデオロギーの世界に突入したということになりそうです。人間は主義で生きることをデカルトから学んだと言えるのです。
私はここを越えたいと願っています。イデオロギーから世界観へという道を開きたいのです。ここを越えないと、人間は行き詰まってしまうかもしれないという危機感もあります。イデオロギーのもとでは人間は健全でありえないからです。
まずやるべきことは、結論を自分に持ってゆかないことです。我ありなんて間違っても言わないことです。かと言って、我なしというのも不自然です。東洋の無は、一見我なしのように見えますがそうではありません。無は何もないということではなく、我がないということです。我ありと我なしの間の、透明な、無重力な中庸、それが世界観かもしれません。いや、これが世界観というものだと思います。世界観はイデオロギーとは違い、こちらから一方的に思うのではなく、向こうから来るのを待つという姿勢です。私はここで間接的に直感のことをいいたのです。直感はいつも向こうからやってくるもので、ガツガツしたところには直感は降りてきません。我思うというのは、私は考えているのだというわけで、向こうから来るものを待っているのではなく、ガツガツと何かを欲しているのです。それでは直感からどんどん離れてしまいます。もしかしたら一番遠いいものかもしれないのです。
イデオロギーというのは自己満足が目標ですから、世界観から一番遠いい、直感に見放されたものと言えるかもしれません。