2021年4月29日
経済のことを経済学者たちが述べているときに、人間の根本にあるケチについて一言も触れないことがいつも不思議でなりません。経済は社会に還元されなければならないからなのでしょうが、経済の問題に人間のケチがどのように関与しているのかは論じる隙間もないようなのです。私は単純にケチが克服できれば経済学なんてなくても、社会はうまくゆくように思うのです。
それともケチに触れては困る何かがあるとでもいうのでしょうか。
人間みんなケチです。それはみんな自分を見ればわかることです。心からお振舞いで生きている人は極めて稀です。ケチ同士がなんとか辻褄の合うような経済を作るのですから、うまくゆくはずがないと考えるのは不謹慎でしょうか。
ケチ、ケチ根性を克服するなんて気が遠くなるような話です。自分を見ればわかります。皆んながお振舞いの精神で生きていたら、社会がどんなにか豊かなのにと思います。そうすれば経済学なんて生まれていなかったに違いありません。
私たち人間はどうしてケチなんでしょう。
人間がケチになった理由があるんだと思います。それはきっと個人の所有が社会に登場したことが原因だと想像します。それ以前はケチである必要などないからです。個人の所有は決定的な役割を果たしています。
守りの姿勢からケチが生まれたのです。自己防御という諸悪の根源のような姿勢です。
ケチはさまざまな影響力を及ぼしました。人間が一人一人の意見を持つのはいいことだと言われていますが、意見と言うのも所有からの影響で生まれたものです。討論会、デイスカッションなどでは意見を交換すると言いながらも結局は自己主張と自己防衛をしているだけです。創造的なものではないのです。
しっかりと意見を持って生きるというのが今では当たり前で、そこから個性が生まれ、個性が輝き、個人主義という考え方が定着するようになったのです。最後は民主主義が生まれました。それを支えているのが選挙です。選挙の際の一票は民主主義の証です。
余談ですが、最近では選挙はいつも不正が罷り通るのですから、個人の一票は踏みにじまれているという訳です。もう個人主義も民主主義も見掛け倒しもいいところです。
西洋的個人主義とケチは表裏一体です。これが続く限りケチは続くでしょうから、しばらくはケチから解放されないのかもしれません。しかしです、返す返す残念なのは、なぜ人間は個人の所有という落とし穴に落ちてしまったのかということです。
そんな中で心底お振舞いで生きている人に出会うと心が晴々とします。どうせ生きるのなら個性だ、個人だ、チケだと威張るよりお振舞いで生きた方が人生が広がりそうです。
2021年4月29日
平和という言葉はよく使われるだけでなく好んで使われています。でも私には正直さの感じられない怪しい言葉で好きになれません。平和を願うとか、平和記念館、平和のためのデモとか、平和式典。よく目にするのですが、この言葉には後味の悪い影があります。その影には思惑と言っていいものを感じます。政治的な欺瞞によつて作られているからでしょう。ノーベル平和賞はまさにその愚の骨頂ようなものと言ったら不謹慎だと言われるかもしれませんが、平和の意味を考えてみれば、さらに平和という言葉が悪用されていることを見れば、それほど不謹慎ではないことがお分かりいただけると思います。
平和を祀り立てているのは戦争をすることが前提になっているということです。
平和とは戦争をしないようにするということでしかないのです。平和、平和と叫んでいる背後には戦争を仕掛けている何かがあるように思えてならないのです。平和は戦争の落とし子なのです。
平和運動をしている団体の財務をやっていた人から聞いたところでは、運動を維持するお金がどこからか来るのだそうです。
平和なんかよりもみんなが心安らかに生きていればいいのではないかと思うのですが、それでは戦争を止めるには力不足なのでしょうか。
2021年4月27日
感情表現の代表格はなんと言っても泣きと笑いです。
泣くと言うのは民族的な違いをあまり感じないのですが、笑いの方は民族や文化によってずいぶん異なります。日本の中でも関東と関西では全くと言っていいほど違いますが、ドイツと日本では笑い方が相当違います。
オランダ人に「世界で一番薄い本は何か」と聞かれて答えられずに口籠っていたら「ドイツ人のユーモアさ」と言われました。ドイツ人はあまり笑わないと言う印象を持っていたのでさもありなんと納得してしまいました。あんまり笑うと安っぽく見られるという人もいました。必要以上には笑わないと言うことのようです。苦虫を噛み潰したような顔をしている人も随分います。
関西では指鉄砲で「ペン」と撃たれたら、「やられた」とすかさずうずくまるなりして反応しなければなりません。こんなことを改めて書く必要がないほど関西では当たり前なのです。わざわざ書く私はもちろん関東人だからです。一年ぶりに京都田辺の友人を訪ねて会食しているときにお嬢さんに「ペン」と指鉄砲で撃たれてなんの反応もしなかったら、「もう忘れてる」と怒られてしまいました。ところが、関東人の私は関西を離れた瞬間に「ペン」は頭からすぐに消え去ってしまうのです。何度教えられても「また忘れてる」の繰り返しです。
大阪の友人のお嬢さんに関東人と結婚できるかどうか聞いたとき「ダメでしょうね」と間髪を入れずに返事が返ってきて、びっくりしました。「なぜ」と尋ねたら、「笑うところが違うから」と言う答えが返ってきました。笑うと言うのは単なる日常生活の潤滑油ではなく、結婚を決めるときの判断材料になるほど精神生活を反映しているようです。
関西の落語と関東の落語は同じ落語とは言うものの別物だと思うことがあります。関西の方が直接笑いを誘い出そうとしますが、関東は結構高飛車に構えて、周りみちをするように笑わせます。
受けと突っ込みは関東にないものです。これはある種思考方法と言ってもいいくらいのもので、コミュニケーションの基礎を作っています。関西では電車の中が関東と比べると何倍かわかりませんが賑やかです。ただ最近は関西も携帯の影響下にあるようで、以前より静かになったと感じたことがあります。
真面目な人は笑わない傾向があります。ドイツ人が笑わないのはこの真面目というのと関係しています。ヘラヘラ笑ってばかりいると、確かに薄っぺらな印象を人に与えかねないですが、笑わないというクソ真面目な堅物も逆の意味で薄っぺらです。
笑うと解放されると同時に、体の中に溜まった毒素のようなものを放出しているようです。癌には笑いが効果的だと思っている人は多いです。笑いセラフィーは随分普及しています。ただ不自然な笑いは逆に自律神経を壊します。
だーるまさん、だーるまさん睨めっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷっ。この遊びは子どもの頃よくやったものです。自分の感情をコントロールしている人が強いようです。イギリスのポーカーフェイスという文化に通じているのでしょうか。
笑いたいときに自然に笑いたいものです。面白いときに笑いが出ます。面白いかどうかを決めているのは自分です。周りのものをたくさん面白いと決めればたくさん笑えるということです。