2021年4月23日
若い頃に旅行している時の電車の中で、初老の占いさんに「調べてあげるから誕生日と名前を書きなさい」と言われたことがあります。しばらくして「あんたは風のようなもんだから掴みどころがないね」と言われたことがありました。それ以来私は風を自称しています。
風の面白さを知ったのは障がいを持ったお子さんたちと生活し、ケアーしていた時です。私の担当したグループは色々な病名を持った子たちの集まりでした。癲癇もちのセンシブルな子どもたちがいて、新月だと満月には色々と変わったことがありました。それはそれで興味深いことだったのですが、それ以上に私の興味を引いたのは風が意外と大きな役を演じていることでした。
風に向かって手を広げる子ども。
風に笑いかける子ども。
風といっしょに歌い出す子ども。
風の中に入って一緒に踊り出す子ども。
実に色々なことを風が引き起こすのです。
私が病気で倒れて、少しづづ回復してきた頃に森の中を歩いていました。とても気持ちの良い日で、頬を撫でる風が気持ちのいい暖かい春の日でした。下り坂に入り、突然風が変わったと思った瞬間、風が私の体の中を通り過ぎたように感じたのです。回復に向かっているとは言っても、体はまだ疲れやすく、重たく、暗かったのです。体が暗いと言うのはわかりづらいかもしれませんが、体の中が不透明な感じです。病気特有の感じなので健康体には縁のないものです。そんな真っ暗な体の中を風が通り抜けたのです。その瞬間健康ということの意味がわかったような気がしたのです。その日からすぐに奇跡的に健康になったということはありませんが、回復の方向を歩み始めていました。
私が治療オイリュトミーの治療を受けている時にも体の中を風のようなものが通るのを感じました。その瞬間やはり体が明るくなるので、オイリュトミーは風のようなものだと思っています。
風に敏感に反応する子どもたちは、風がなんなのかをよく知っています。きっと彼らの体の中を風が通り過ぎているのです。風の精に通じているのかもしれません。風に向かっている彼らは一様に良い顔をしているのです。とても幸せそうな顔をしているのです。風の神様と話が通じるのかもしれません。
沖縄に台風が近づくと、わざわざ海辺に出かけてゆく人が必ずいて、毎年何人かが風か波に呑まれて死んでしまうのだそうです。そのことを話してくれた人は「正直自分もやりたいから、気持ちはよくわかる」と言って普通のことのように話してくれました。
台風が来ると台風の目に向かって車を走らせる友人がいました。バードウォッチャーで、台風の目の中に巻き込まれて出てゆけなくなった南国の珍しい鳥がいるのだそうで、それをわざわざみにゆくのです。彼女も当たり前のような顔で淡々と話してくれました
風に魅せられた人たちは「き」の字がつくような人たちです。
風という字は「テ」と読みます。疾風は「ハヤテ」と読みます。また「ち」ともよみ、東風は「こち」で東から吹いてくる風のことです。私が日本中を講演していたときに、鹿児島県と高知県と岩手県がとても印象的で、特別な県だと思っていました。特に岩手は、岩に吹く風が印象的で、岩手はもしかしたら岩風がそもそもではなかったのかと思ったことがありました。少しこじつけがましいですが、宮沢賢治が「風の又三郎」を書いたのは、岩手の風のことを書きたかったのではないのかと勘繰ってしまいます。「どどどっ」と吹く風なんかどこにもないですから。
風の中でもとりわけ美しいのは、桜吹雪です。十日ほどの命の最後に風に舞う桜の花びらは哀しく美しく凛としています。
2021年4月23日
昨今は嘘があまりに多すぎます。どこを向いても嘘、ウソ、うそという感じで、至る所に嘘が溢れ、生活環境は嘘で染まっています。政治も嘘、学問もうそ、歴史なんか全部ウソに見えてきます。誰かが嘘を持ってきてくれても、もう置くところがないどころかはいても捨てる場所もない程の有様です。
それなのに嘘は毎日量産され毎日私のところにも運ばれてきます。
今までは本当と嘘という図式が教えられていました。本当のことを言いなさい、とは小学校からずっと言われ続けてきたことで、耳にタコができています。私も本当の反対が嘘だとずっと信じていました。そのため嘘の反対は何かと聞かれたら本当とか真実とかいうふうに答えてきました。
ところが最近の嘘の氾濫を見ていると、それでは納得できないものを感じています。真実の反対は嘘です。ここまではなんとか着いて行けます。しかし嘘の反対は何かというと、真実、本当と言ってもなんの反応もないのです。どうも真実ではないような気がするのです。真実がどこにあるのかすらわからなくなっています。嘘にコーティングされてしまって見えなくなったのでしょうか。
最近の嘘はもうしっかり独立していますから、真実の反対だなんてほんのわずかな人しか思っていないと思います。嘘はしっかり市民権を持って、堂々としています。
恥ずかしそうに嘘はつくものでした。それが嘘をつくときの礼儀だったのは昔のことで、今は全く違って、嘘は堂々と、本当のことを言う以上に堂々と言う時代なのです。嘘は百回つくと本当になるとも言われています。却って本当のほうが遠慮して「今のは本当です」なんて言うようになってしまいました。
まだ嘘の反対に拘っています。嘘の反対はなんでしょう。これが見つかったら、何かが進展しそうな気がします。今私が思いついたのは、知るものは語らず、語るものは知らずと言う老子の言葉です。
嘘の反対は語らないことなのかもしれません。老子はとっくの昔に知っていたようです。今の世の中の嘘の氾濫は彼にしてみたら少し派手になりすぎているくらいにしか見えないのかもしれません。
2021年4月22日
初孫の、アメリー・桃は今日が三歳の誕生日です。
生を受けて三年の間に学び取ることが想像を絶する出来事だというのは、耳にタコができるほど聞かされています。
実際、娘を見ているとそれを目の当たりにします。そのまま拡大機で大きくすれば、そのまま成人の人間になってしまいそうなくらい、三歳の時点で完成しています。
特に最近目につくのは、言葉で考えているという手応えです。考えているというより、周囲との結びつきを仕切り直しているようなのです。
とりあえずは、こんな小さな子がこんなことを言えるのだと感心ばかりです。周囲がぼんやりしていると、孫娘はその間に何十と言葉を覚えてしまいます。最大の驚きは、その言葉が正確に周囲の世界を移している(映している、写している)ことです。この正確さはが成人した時にも残っていたら、人間はみんな天才ということになってしまいそうなくらいの凄さです。
福岡の柳川でしごとをした時にきいた話です。その土地には昔、褒め婆さんという人がいたのだそうです。どこかに赤ちゃんが生まれたと聞くとそのうちまで赴いて、生まれたばかりの赤ちゃんを褒めちぎるのです。頭の先から爪先まで、とにかく全部褒めるのだということです。
話を聞いた時には「そんなんですか」と焦点があっていない返事をした覚えがあります。しかしそのことを時折思い出す度に、その褒め婆さんの役割の大きさに気づいたのです。
人間は褒められたら成長します。これはおいも若きもみんな同じです。きっと死んでからも同じで、褒められたら死後の世界でも成長していると思います。
人間が自分だと思っているものは実は周囲の人間から言われたことがずいぶん含まれているのです。自分なんてそんなに自分ではないのだということです。人か言ったことが大きく作用しているのなら、赤ちゃんの時にベタ褒めされた赤ちゃんは違う人生を送るのではないかと思ったりするのです。赤ちゃんはそんなことはわかっていないなんて考える人がいたら時代遅れです。赤ちゃんは周囲の大人の言っていることをみんな理解しています。そうでなかったら、さ年という短時間の間にあれだけの言葉を覚え、理解し、しかも使いこなせるようにはならないと思います。
人間同士できる限り誉めていればいいのでしょうが、なかなかそうもいきません。まずは褒めるというのが実はとても難しいことだからです。特に私が住んでいるドイツは基本は批判です。カントという思想家は、なんでも批判しました。批判するとわかるというふうに考えていると思います。しかしそれでは成長どころか萎えてしまいます。
一日の終わりに今日は何回人を褒めたかなんて数えて床に着いたらぐっすり寝られるかもしれません。