言葉を歌う時が近い将来に必ずきます

2021年3月11日

なぜ言葉を歌わなければいけないのですか、と聞かれるのですが、とりあえずは特に答えはないで、アルフレッド・デラーとレオ・スレーザークを聴いてみてください、と振ります。この二人ほど私の耳に言葉を歌えた歌い手がいないからです。答えになっていないのに一番具体的な答えだと思っています。

 

言葉は歌いたがっている。これだけはどんなことがあっても事実です。言葉が歌うのです。言葉に音楽をつけるのではありません。

 

詩を音楽で表現できるのかどうか。音楽は言葉に太刀打ちできないと思います。剣道を始めたばかりの人が剣豪と試合をするようなものでしょう。音楽は素晴らしい表現力を得たと言われています。実際にそうした豊かな表現が音楽の世界を支えているわけですが、言葉の前にはなす術がないと言うのが私の正直な感想です。音楽にできることをしっかり把握すれば案外明確なことのように思います。

 

言葉の表現の世界は存在、本質です。音楽的表現は言葉から見ると機能のようなもので、本質ではないです。音楽はBGMではないかと最近のクラシック音楽のラジオ番組を聴いていると思うことがあります。ただ流れているだけ、時間潰しのような放送に何度も出会いました。

言葉の偉大さが今の時代よくわからなくなってしまったのです。言葉は人間が生きていることそのものです。音楽は生きることを遠くからサポートしているかもしれませんが、生きていることを表現できる能力はないと思います。生きていることとはつまり、感情の中で起こる繊細な機微です。言葉は巧みにその機微に着いてゆきますが、音楽はその細やかに変化する道でハンドルが切り切れないでしょう。

音楽を否定しているのではありません。音楽は音楽の中で豊かなのでそれでいいのです。

もしかしたら音楽を過小評価しているのではないかと思っていらっしゃる方がいると思うのですが、そんなことはないと思います。ただ一つはっきりさせておきたいのは、言葉が過小評価されていると言うことです。今日言葉は用足しの道具です。それでは言葉について何か言っているうちには入らないです。言葉が可哀想です。もしかすると言葉の問題ではなく、人間の存在そのものが社会から過小評価されているのかもしれません。もしそうだとしたらそれは悲劇です。

 

二年前にノーベル文学賞の栄誉に輝いたカズオ・イシグロさんが、最近の小説家たちの中には他の言語に翻訳されやすいような平易な文体表現を使う傾向にあるというようなことを言っていましたが、文学も商売道具に成り下がってしまったのでしょうか、用足しの道具なんでしょう。そんなものを書いてノーベル賞を狙っているのがいたら言葉を侮辱している最低の小説家だと言えますね。

 

私は詩が必ず復活すると考えています。まだ予感すらないものかもしれませんが、私は復活します。甘い夢見心地のするポエジーというものではなく、人間存在をシビアに映し出すような、厳しくも美しい言葉が復活するだろうと思っています。

 

 

シューベルトは転機を司るようです

2021年3月10日

音楽の中で今一番衰退しているのは歌です。これについては私のブログでも触れたことがあります。

声を出して歌うだけでなく、楽器も歌うように弾けというのですから、歌が衰退している、歌がないというのは音楽的には致命的と言えるのです。

 

さて、ここからが私の言いたいことです。これは音楽として語られるだけではなく、人生に歌がないという言い方ができます。これではピンとこないので、人生に味かないと言い換えてみます。私たちは実は味気のない人生をやっているのだと言えるのかもしれません。

今、社会はセミナー漬けになっています。コロナ騒ぎ以前からの現象です。日本だけではないのですが、特に日本はどこをみてもセミナーで賑わっています。勉強好きな日本人ということなのですが、私にはそれだけではない、もっと別な要素を感じるのです。

 

歌のことに戻りますと、今も歌い手の登竜門として歌い手のコンテストがあり、私の知る限りでもずいぶんたくさんの若い人たちが挑戦しています。私の住んでいる町でも結構大きなコンテストがあり機会があれば若い歌い手たちの歌を聞きにゆきます。特に昨今は歌のコンサートというのはめっきり減ってしまい、ほとんど歌曲をライブで聴く機会がなくなっていますから、コンテストは私にとっては歌曲のゆうべの代わりになっているのです。

そこで一番残念だと思っているのは、歌い過ぎです。なんのことだかわからないと思うので補います。

基本的には過ぎたるは及ばざるが如しという諺で知られていることです。食べ過ぎはダメで、腹八分目が一番です。人間関係でも深入りし過ぎるとダメになります。友達、親友といえども深入りは禁物です。人付き合いは六分目と言った人がいます。

という具合に歌も歌いすぎると力みが表に出てきて聴いていて疲れます。セゴビアという前世紀を代表するクラシックギターの巨匠が、コンテストで優勝したテクニシャンでばりばり弾く若いギターリストに『弾き過ぎないように注意しなさい」と釘を刺すように忠告したと言います。芸術はここが命です。過ぎないことです。

私がセラピーの仕事をしているときにも、もう少しというところでやめるように先輩から口を酸っぱく言われました。やりすぎると患者さんは次から来なくなってしまいます。

 

歌のコンテストではよくシューベルトが歌われます。私はシューベルトの曲と他の作曲家の歌とをはっきり区別しています。シューベルトは唯一詩が音楽になって歌います。他の人は詩に曲をつけて歌います。詩が音楽の中から飛び出してくるような錯覚を受けることがあります。歌い手ではなく、詩が歌っているという感じです。このシューベルトを朗々と歌ってしまっては、シューベルトではなくなってしまいます。確かにシューベルトの歌にはハッタリが全くないので、歌い手がハッタリを付け足そうとするのでしょうが、それではシューベルトが死んでしまいます。コンテストでは死んだシューベルトがいかに多いことか。

シューベルトの歌は歌詞を歌い過ぎないのです。どうしてこれができたのか謎です。でもそれが経験がない歌い手には物足りないので、歌い過ぎてしまうのです。ところが経験のある歌い手でもシューベルトを控えめに歌うのは相当勇気のいることのようで、たいては歌い過ぎているのが現状です。

 

日本的性格のいいところは、もっと勉強してという向上心です。しかし足るを知るというのも大切なことです。これで十分なんて言うと怠け者のように捉えられてしまうのかもしれません。しかし精神性の基本とは、足るを知ることであり、過ぎたるは及ばざるが如しなのです。

今の世の中のセミナー流行(はやり)はどこかで精神性に反しているように思うのです。知識欲に突き動かされているのかもしれません。知識欲も欲です。このことはしっかり知っておくべきです。知識に振り回されて、知識が教えるところに従って生きるということなのです。確かにそうすることしか私たちは日本の教育の中で教わってこなかったので仕方がないのかもしれませんが、他にも生きる道はあるのだと言うことを考える時期に来ているように思うのです。

歌い過ぎは歌を壊してしまうと言うことです。セミナー漬けも人生を壊してしまうのではないかと懸念しています。

オンラインでの初講演を支えてくださった方達へ

2021年3月5日

リモート講演を聞かれた方、見られた方から、仲節はいいもんですねと幾つかメールをもらいました。一年に一回は聴かないとと言うお言葉までいただきました。

仲節とは、中身なのか、語り口なのか。多分両方を一緒くたにしたものが仲節なのだと考えます。

 

さてこのブログもそろそろ仲節をやってもいいかなぁーと考えています。内容は表題が変わっても一つのことを言っているようなものなので、ずっと仲節でした。これからは、語り口も、書き言葉的なものより語り口的なものにと考えています。

 

今回、講演では「大人」というキーワードに振り回され、準備の時にそこに時間を費やしました。どう処理したらいいのか、迷いました。結局、まずは子どもと対比することにして、子どものことをたくさん話そこから流れを作りました。ただそこを説明すしすぎると長くなってしまうので、短くまとめてと目論んだのですが、うまくいったかどうか。

あのように一人で喋るのは独り言のようになりますから危険がいっぱいです。妄想に走りそうになる危険です。しかも集中している先は、カメラのレンズですから、ますます危ないです。「時々ご自身の顔など見られましたか」と聞かれましたが、ほとんど、いや全然見ませんでした。見たらリズムが狂うような気がしたので、もっぱらカメラのレンズに向かって語りかけていました。目もレンズを睨み続けていました。皆さんは私が皆さんを見ていると言う錯覚を楽しまれたわけです。

講演会場では聴衆の方達が目の前にいると言うのは気晴らしになるものです。見慣れた顔、知らない顔を眺めながら話すのですが、こんなに話を進める原動力になつていたとは、今まで会場で聞いてくださった皆さんに感謝です。

でも今回も意外なことに、レンズの向こうに人がいるのだと言う感触が20分くらいしたところで感じられ、そこからはなんとなくいつものペースが掴め、話が前に進むのを感じながら話せました。ご覧になられた方からは、だんだん元気になってゆくがわかりましたと言われています。

今回は機会を通しているのに、全国に聞いていらっしゃる方がいるのだという感触が初体験できました。いつもそちらに伺っている方達が今日はこのレンズの向こうに一堂に会していらっしゃるのだと励まされました。

リモートがこれからは特殊なものでなくなるでしょうから、今回体験できたことで、これからのリモートの準備がしっかりできた気がして、リモートがトラウマにならずに済みます。

今回の回を支えてくださった皆んに感謝です。ありがとうございました。

そろそろ録画配信が始まると聞いています。またいろいろな感想が聞けるのが楽しみです。