2021年3月5日
歌は民族を問わず世界中にあります。そんなの当たり前だと思われてしまいますが、なんで当たり前なのかととうと、人間は歌う存在だという答えが返ってきそうです。
そのことを確認したいと思います。
だからと言って、歌に興味のない人に、歌いなさいと強制するつもりはありません。歌に興味がなければこのブログは飛ばしてください。
どの民族も自分のメロディーとリズムを持っています。もともと言葉は歌われたものですら、独自の歌があると言うのは独自の言葉を話すと言うことと関係します。言葉から音楽が独立していき、器楽曲という抽象的な音楽が出来上がりました。ヨーロッパの近代以降器楽曲は盛んで、今日では音楽の比重は歌よりも器楽曲に傾いていて、オーケストラ、ピアノ、ヴァイオリン、弦楽四重奏などが中心だと行っても過言ではありません。
シュタイナーが言葉と音楽の関わりについて気になることを言っているのです。音楽は言葉を蹂躙した、いやもっとどぎつく強姦したと言うのです。聞きづてならない発言です。
音楽が言葉から独立したと言うことは、言葉を全く省みなくなったと言うことで、音楽独自のメロディーやリズムを謳歌していると言うことです。もうことはからの影響はどこにも見られなくなっているのです。
現代の歌はその言葉離れしたメロディーやリズムを今度は言葉の方に被せているのです。音楽が好きなようメロデーやリズムを言葉につけて歌わせるのです。これを蹂躙、強姦と表現したのです。
ただ私たちはそのように作られた歌を学校などでは習うので、それが自然に聞こえるように慣らされてしまいましたから、シュタイナーがそう言ったからと言って、「そうなんですか」と簡単に引き下がれず、かえって首を傾げてしまいます。
音楽は無力だと書いたばかりなのに、音楽が言葉を蹂躙、強姦しているなんてよく言えると思われても仕方がありません。しかし私の言い分は、音楽は社会的な効力としては無力ですが、音楽にも犯している罪があると言うのは矛盾しないと思います。音楽が自分で綺麗だと思ったメロディーを言葉につけて歌わせるのは、音楽の奢りだと考えることもできるのです。言葉と音楽の間の新たな調和が求められているのです。
これは将来の音楽の課題の一つです。知性的な時代はさまざまな作曲技法を発明しました。ソナタ形式とか十二音階とか言った技法です。ところがこれからは言葉と音楽の新たな調和を探すことで、新しい音楽の波が生まれると言えると思います。言葉に内在しているメロディーをリズムを、今度は音楽が発見する時代が来るのです。
2021年3月4日
音楽と時の権力者とについて書いてみます。
音楽は精神的にはとても高貴なものとして扱われます。哲学者ヘーゲルは「全ての芸術は音楽に憧れる」と言い、ある建築物の美しさを「凍れる音楽」と表現した人は、ゲーテ、タウトの他に何人もいます。
しかし政治的に音楽を利用するのは難しいようです。政治思想を音楽で表現するのは無理です。音楽は抽象的なもので、具体時なことを表現できないからです。「私はあなたを愛しています」と音楽では作れません。歌としてテキストがあってそれで内容がわかるので、音だけでは表現し気ないのです。ところが絵画、彫刻、建築などは政治思想を巧みに表現でき、時の権力者たちはその力を大いに活用しました。
「ナポレオンの戴冠式」と出された絵があります。ルーヴル美術館で一番大きい絵です。詳しく述べると長くなるので端折りますが、描かれているのはナポレオンが冠を受ける様子ではなく、冠を授かるのは妻のジョセフィーヌです。ナポレオンに冠を授けられるのは、ナポレオンによればナポレオンだけで、実際にはそりシーンを描いたものがあったと言うことですが、それは描き改められたそうです。偉い人の肖像画は数に遑がありません。独裁主義、共産主義には膨大な思想を絵にしたものが描かれています。どれも今見るとグロテスクで気持ちの悪いものばかりです。彫刻も同じように権力者たちを作りました。建築だって権力者の力の象徴なのです。
と言う具合に芸術と呼ばれているものが、時には権力を表現するために使われるのですが、音楽だけは例外です。
ベートーヴェンの交響曲3番は普通、エロイカとか英雄と呼ばれていますが、この英雄は他ならぬベートーヴェンが共感したナポレオンです。ただその後皇帝になったナポレオンのことを俗物呼ばわりしたと言われています。
私はヴァーグナーもニーベルンゲンの指輪で音楽を権力の象徴として使っているのではないかと思うことがあります。ヒットラーはニーベルンゲン指輪の総譜が寄贈された時大喜びをしたと言われています。
それらはごくごく特殊な例外で、権力と音楽は結びつきが薄いもので、せいぜい鼓笛隊が中世の戦争の時に軍隊を元気付けるために行進をしたのを思い出す程度です。
先日のブログ、ヒラリー・ハーンのところで書きましたが、音楽に自己主張が入り込むと、本来は高貴なものとしてある音楽が聴くに堪えない下品なものに変わります。音楽のこの繊細さは何に由来するのでしょうか。何故権力、利己主義、自己主張といったものの表現には適さないのでしょう。
この音楽の特性で思い出すのは「愛」と言う言葉です。愛はいろいろなところで使われすぎています。悪用されていることもあります。手垢で汚れているところもあります。しかし愛にはそれを超えた素晴らしさが宿っています。愛の中を貫く力と音楽はとても近いものを感じます。同じところから生まれているのかもしれません。
愛も無力です。音楽も無力です。世界を歴史を貫く力は、「権力」ではなく「無力」でしかないのです。
2021年3月4日
以前仙台から少し山形に寄った愛子(あやし)にある女性修道院をお借りして、金曜日の夜から、土曜日一日と、日曜日のお昼までという、週末合宿をしました。宮城県からはもちろん山形県、岩手県からも参加者があって、まずは金曜日の夜を全員でワイワイと夕食を作りながら、たっぷり仲節のオンパレードをやりました。
そこに日曜日だけ一日参加で加わった年配の方が、午前の私の話の後の休憩時間に「この会は何を作ろうとしているのですか」と尋ねてきました。私と、主催者の何人かと顔を見合わせながら「別に何をという具体的なものは考えていません」と答えると、キョトンという顔をされ、「ではなぜこんなにたくさんの人が集まるのでしょう。かわかりません」と怪訝な顔でお帰りになりました。その時は二十人ぐらいの参加者がいたと思います。
私にはドイツで、何かを作るために人集めをするのに飽きていましたから、日本ではそんなことでなく人が集まれることを高く評価していたのですが、その女性の言葉を聞いて、日本もやはりそうなのかと、がっかりしたことがあります。
何も作るなんて考えていないのに人が集まる、すごいことだと思いませんか。
私の話は、なんの役にも立たないという特徴があります。特徴と言っていいのかわかりませんが、そういうことです。だから毎年聞きに来ると言ってくれる人もいます。
役に立つ話はそこらじゅうで聞けます。それが本当に役立つかどうかはわかりませんが、役に立つと銘打って講演会をすると必ず人があるまりますから、主催者はこの手を使います。医療関係、心理関係、スピリチャルな会、経営の秘訣などというのは人でごった返しますが、私のような「なんの役にも立たない、ただの話」は今の社会に存在価値があるのかどうか疑われてしまうものですから人など集まらないだろうと思いきや、なんとか人が集まるのですから、私自身正直驚いています。なんの役にも立たない、何かを作るために集まるのではないかいに人が集まる、やはり日本の力だと感心しています。これは美意識に通ずる高次の意識からのものです。
私の個人的な経験で言うと、「何かの役に立つ話が聞けるかもしれない」と期待して出かけた講演会ほど、空振りします。
もちろんすぐに役に立つ話と、仲正雄という私とは反りが合わないのはわかりきっていますから、そんなところに私がいっても空振りするのはわかりきっているのですが、人に誘われたり、ギリで出かけなければならなかったりと顔出ししなければならないこともあるのです。
何故「役に立つ」がこんなに人気があるのかと言うと、やはり物質主義的利己主義のなせる仕業だと思います。流行というのは大抵ここから生まれます。今日のスピリチュアル流行りはやはりここに端を発していますから、基本は物質主義的なベースの上に乗っているスピリチュアルなのです。
「役に立つ」はこの話を聞けば儲かったと言う気分になるから聞きにゆくのです。「役に立つ=儲かる」と言うことのようです。やっばりそこに行き着くのかとがっかりします。