倫理はどこにあって、どこからくるのか

2024年4月26日

最近は倫理のことが気になっていますから、文章にして留めておきたいので書かせていただきます。お付き合いください。

倫理を持っている人とはいいません。

倫理観という言い方をして、倫理観に欠けている人などといいます。倫理観に満ちている人というのもおかしいです。

倫理とは何かというと、私は善と悪をおにぎりのように一つにまとめたものだと思っています。生々しい善と悪とか行き交うところです。

説教などで素晴らしいことだけを朗々と説いている人がいますが、倫理に適った話ではないのです。それは質の悪い説教話に過ぎません。もちろん悪への勧めのようなものは論外です。

倫理というと善に近いもののように捉えるのが常ですが、倫理を実践するとなると、善行ばかりでは優等生のようなもので退屈極まりなく、悪の味も知っている懐の深い人でないとできません。倫理は貧富とも関係なく、知的能力とも関係なく、才能のあるなしにも関係なく、いい人でもいいし悪い人でもいいしと、なににも依存していない自由なものです。

倫理が欠けてくると、善と悪の間の行き来が滞ってしまうと教条的になって、ドグマの世界になります。原理主義といいます。そういう人は顔が引き攣っています。懐の深い人は柔和な表情の持ち主です。そうすると倫理とは柔軟性ということでもあるようです。善と悪を思いのままに操れる人ということです。

一つの政治思想に取り憑かれてしまうと表情にすぐ現れ、それは次第に人相にまでなってゆきます。どの宗教、どの政治思想でもいいのですが、そこにどっぷり浸っている人たちには「こわばった顔立ち」という共通性が見られます。

倫理はユーモアの別名ではないかという気がしてきました。

 

一般人間学と倫理のこと

2024年4月25日

一般人間学を読む度にシュタイナーが開口一番倫理のことを持ち出すのにびっくりします。二週間にわたる連続講演の最初に、倫理のことを持ってきたのですから思うところがあったはずです。

シュタイナーの哲学書として読まれ続けている「自由の哲学」のなかで、一箇所倫理的ファンタジーと題されたところがあります。ところが、そこで深く倫理の問題を論じているのかというとそんなことはないのです。自由の哲学では、の他の箇所でも倫理についてはほとんど触れずにいたと思います。

ところが学校を作ろうと集まった人たちを前にして、シュタイナーは倫理のことから話し始めたのです。しかも倫理が霊の世界と私たちを結ぶものだと暗示しながらです。それを読む現代の私たちは、若い世代の人たちとの読書会の時の経験からすると、どうも倫理を持て余しているようなのです。私たちの時代はなるべく倫理について語らないように教育されているのでしょうか。

倫理については一番自由に話したいと願っていますが、倫理は必ずと言っていいほど既製の宗教と結びつけられてしまいます。ある宗教の持つ宗教観の中で倫理が語られるこのです。しかも宗教そのものがタブーのような社会的な風潮では、倫理は居場所がないとが多いようです。

倫理を自由に語るには、非倫理的な問題も含めて語ることが求められます。倫理は善悪と関係していますから、一面的に善サイドから倫理を語るとみんな善人のふりをしそうな気がします。非倫理的であること、つまり悪いことをも認めないと倫理の意味を深く理解することはできないのです。

絶対善も絶対悪もないのです。倫理というのはその間のグレーゾーン全体のことだと思います。限りなく白に近いグレーか限りなく黒に使いグレーかということです。善と悪の間を力強いフットワークで行き来できる内面の力が倫理に近づくためのセンスを与えてくれるのです。倫理を語るには博学である必要はなくただセンスが必要なだけなのです。

自閉症とダウン症

2024年4月24日

スイスのある障害者施設が自閉症の子どもばかりを集めて開設されました。

私がスイスで勉強している時の話ですからもう四十年近く前の話です。当時としては画期的な試みで色々な方面から注目されていたのを覚えています。

そこではさまざまなセラピーが用意されていましたし、医療的にも自閉症への取り組みが積極的になされていたので、その分野では期待されていたのですが、開設してからしばらくして評判が落ちて行くのがとても気になりました。

私は当時ドルなっ派に席を置いて勉強していたのですが、その施設はドルナッハの裏手の丘にできた、見晴らしの素晴らしくいい施設だったので見学に行ったのを覚えています。内部も綺麗に整備されていて自閉症の子どもたちはきっと居心地がいいだろうと感じるような作りでした。

施設に収容されていた子どもは総勢で五十人ほどだったと思います。最新の設備、セラピーが用意されているのがご自慢だったのですがしばらくして一つの問題が発覚したのです。施設で働いている職員さんたちが、施設には自閉症の子どもばかりで、ホッとする時間がなく、精神的にストレスが溜まってきてしまったのです。

私も施設に入った時に一瞬冷ややかな感じがしたのを覚えているのですが、毎日お仕事をされている職員の方々はだんだん病気になっていったのです。施設全体の雰囲気が冷え切ってしまったというのが一番適切な言い方だと思います。

最新の医療も、セラピーも積極的に取り入れられたのですが、この冷たい雰囲気を払拭することはできなかったのです。施設を閉じるわけにもゆかず、何か策を講じなければならなかったわけです。

その時に提案された一つの案によって施設は再び活気を取り戻し、機能し始めたのです。何をしたのかというと、さらに進んだセラピーの導入でももっと進んだ最新の医療器具でもなく、ダウン症のお子さんたちの入居に踏み切ったのでした。それまで掲げていた自閉症の専門施設という名目は返上することになったのです。

ダウン症のお子さんたちの暖かな言動によって、自閉症のお子さん達の間にも温かい流れが生まれたのです。もちろん施設の職員の方達にも笑顔が蘇ってきて、温かい雰囲気の中でお仕事ができるようになったのでした。

ダウン症のお子さんたちの中にはもちろん気難しい子どももいます。しかし基本は笑顔です。溢れんばかりの笑顔です。意外とシャイな性格のお子さんが多いのですが、慣れて仕舞えば彼らの挙動は微笑ましい限りです。

この暖かさが自閉症のお子さんだけを集めて冷え切ってしまった施設の空気を温め和ませたのです。

最新のセラピーも医療器具も、ダウン症のお子さんの入居からしばらくしてなくなっていました。

ダウン症のお子さんたちはセラピー以上の働きをしてくれたのです。

 

私がドイツでお世話になったビンゲンハイムという施設の創立者であり長年施設長をされたシュタルケ博士は、「治療教育の大前提は施設での生活だ」とはっきり言い切っていました。ビンゲンハイムを出て音楽セラピー、絵画セラピー、言語セラピーと言ったセラピーの勉強をしたいという若い人たちは後を絶たなかったのですが、「セラピーでは得られないものが施設の生活の中にはあるのだ」と言っていました。

私も五年の間に生活の中で培われるものの大きさは痛感していました。

セラピーも大事なことなのでしょうが、セラピーより大きな力を持つものがあることも経験から知りましたから。その結果、日常生活の中で培われるものが治療教育には欠かせないと深く感じている次第です。

スイスのあの施設は、自閉症のお子さんたちがダウン症のお子さんたちと生活空間を共有するようになったことでその後も長く存続できたのでした。