太陽からの「ラ」の音よりも、地球の「ド」の音

2024年4月22日

オーケストラの演奏会では演奏の前に楽団員全員で音合わせの儀式を必ず行います。オーボエのラの音がまず響き、それをコンサートマスターが受け、その音に全員が合わせます。

かつてのウィーン交響楽団にはヴァイオリン属の楽器を調弦する専門のおじさんが居て、彼が弦楽器は全部音合わせをしていました。楽団員は舞台に登場すると椅子に置かれた調弦された楽器を手にして演奏したのです。今から思うとなんとも優雅な時代だという感じですが、想像するにいい音がしていたような気がします。

 

今でも調律ということで基本となる音は太陽の音「ラ」です。

ところがこのラの音は場所と時代でテンデンバラバラなのです。390ヘルツから470ヘルツくらいの幅があります。ウィーンのラの音、ヴェルサイユ宮殿のラの音、ベルリンのラの音から始まって世界各地で色々なラの音が使われていました。現代に入り、世界の文化交流が盛んになり、ヨーロッパの中をいろいろな楽団が演奏旅行をするようになった時に、それぞれの国が持つ違った「ラ」の音では全く不便で、イギリスから440ヘルツで統一しようという提案があって、1930年代に統一されました。まずはヨーロッパが440ヘルツで統一されました。それが今世界の基準になっているものです。ただ今現在では少し高い442ヘルツが主流だと聞きます。カラヤンというベルリンフィルの主席指揮者だった人はもっと高いラの音を使ったと言われています。それによって音の緊張感が増すと考えたのでした。アメリカにわたったラの音は450ヘルツを超えていたと言われ、そこまで弦の張力を上げてしまったことで楽器に異常が生じ、再び低く設定したという経緯もあるようです。ちなみに日本の雅楽の「ラ」の音は437ヘルツくらいだそうです。

古い時代に作られたパイプオルガンには470ヘルツのラの音を持つオルガンがあります。昔だから低かったというのは必ずしも正確な言い方ではないようです。

ルドルフ・シュタイナーは現代はラの音が基本ではなくドの音を基本だと考えていました。一つ前のギリシャ文化期は太陽から音が与えられていたので「ラ」の音が神聖な音でした。「ラ」は太陽で生まれた音なので、ギリシャ時代は太陽からの「ラ」が中心でした。ギリシャ時代にすでにあったギターはキタラといい、胸に抱えて奏でるという意味です。現代のギターを見ると真ん中には丸い穴がありますが、それがまさしく太陽文化の名残です。リュートの綺麗な細工が施された丸い飾りのついたものも太陽を表しています。音楽は太陽からの恵みだったのです。そこでは神聖な「ラ」の音から導き出された音楽が溢れていたのです

最近よく耳にするのは、432ヘルツがヒーリン的にいい音の高さだということです。現行の440ヘルツは悪魔の響きということのようです。ヒーリングにいい音を聞くと心が緩みやすらぎすぐに眠れるのだそうです。リラックスにはもってこいなのだそうです。

どこからこの「ラ」が由来するのか私は知らないのですが、ご存知の方がいらっしゃいましたらぜひコメントに書き込んでいただきたいと思います。私のこのブログへのコメントは私以外の人間が読めないようになっていますので安心して書きたいことを書いていただいて構いません。。

 

ルドルフ・シュタイナーは「ド」が地球の振動する音と捉えていました。地球に振動が生まれると、1が2になり、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になり、32が64になり、64が128になり、128が256になります。256ヘルツが大地からの振動の音ということなのでしょうか。

 

ここまで来たら調律の話をしておかなければなりません。純正律がいいと考える人がいますが、五音からなるペンタトニックまではそれで調律することができますが、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」の七音からなるディアトニックになると純正では調律できなくなってしまいます。

バッハが発明したと言われる四度と五度とを組み合わせて行う調律だと、オクターブが計算で出てくる誤差が8分の1音ほどあり、純正律と比べるとどうしてもズレが生じてしまいます。調律師はそれを振り分け、混ぜなければならなくなるのです。一つのピアノを10人の人が調律すると、10種類の違った調律がなされるということが生じるのです。オクターブという中に音を閉じ込めようとすると、調律的に嘘をついていることになるからなのです。純正律の人から見ればそれが不純な調律ということなのですが、ドを根音とする現代の音楽生活にはそれでしか対応できないという現実を見過ごすわけにはいかないと思います。

ピアノやハープ、ライアーのように七音の間に半音が入り一オクターブが12音となった時に、一オクターブを均等に分けなければ、転調する音楽が演奏できなくなるので、一つの調でできた音楽で満足する音楽しか演奏できない純正律の生き延びる道は極めて狭いと言わざるを得なくなります。

ただラの音を中心にした五度の五つの音からなるペンタトニック、さらにはそれより少ない音を使う場合には、転調や調性の問題がなくなるので純正律で調律でき透明な響きの世界を楽しむことができます。これはこれで「ラ」の世界からのプレゼントだと言えそうです。

積み木で遊んだ思い出

2024年4月22日

私の子どもの頃の室内遊びといえばもっぱら積み木でした。当時は今のように多種多様なオモチャはなく、今日では当たり前のLEGOもなかったので、木でてきた正方形と長方形の簡単たんな積み木で家を作ったり、道路を作ったり、車庫を作ったりしたものです。大きなお城も作ったりした覚えがあります。毎日違うものを作っていました。たくさん積み木を持っている子が羨ましかったのを覚えています。

ところが私の孫を見ていると遊び方が違います。一番の違いは積み木で全然遊ばないことです。孫たちはいろいろな種類の室内遊戯が与えられていますから、積み木があっても遊ばないのです。いろいろな積み木を買って与えたのに全然活躍していないのです。寂しい限りです。

これが時代の変化というものだと思えばそれまでなのですが、子どもの遊びというのは、大人にとっての遊び以上の重さを持っているものです。例えば子どもの模倣を例に取っても、模倣は大人のモノマネとは違う次元で捉えられるべきものです。子どもは模倣することで自分が生きている世界を学んでいるのです。

積み木で遊ばないというのは、積み木はこう遊びなさいという指南がないことが原因ではないかと思うことがあります。。しかも形を見ただけではどのようにしたらいいのか検討がつきません。

他の室内遊戯も特に遊びの仕方などが与えらているわけではないのですが、積み木と比べると見ただけでどうしたらいいのかが分かりやすいというか、見てすぐにどうそれと付き合うかが子ども心にもわかるのです。いい意味で具体的なのですが、遊び方としては一つしかないという風にもいえます。積み木にあっては一切具体的な方向は示唆されていませんから、可能性としては無限にあるといえます。しかも完成した形というのも遊んでいる子どもたちが決めればいいので、どんなに見窄らしくてもそれで出来上がりといえばそれでおしまいになります。

英語に「to + 動詞」という形があります。不定詞と呼ばれているものですが、使い方が決まっていなくて幾つかの可能性を持っていて「定まっていない」ということで不定詞なのです。主格になったりします。「to eat」だと「食べということは」と主語として使えます。また目的格になったり補語的に修飾したりと変幻自在で不安定なのです。使えるようになるととても簡略的で便利なものなのですが、英語に対してのセンスが上達しないと上手く使えるようになりません。大事なのはもちろん例題をたくさん覚えることもありますが、何とも上手くいえないですが「センス」です。センスを磨かないと使いこなせないのです。

そうしてみると積み木というのは遊ぶことのセンスが培われものともいえます。想像力というのか工夫ともいえます。そこにあるのはただの木の積み木ですから、センスを磨かないと積み木遊びは上達しないということなのかもしれません。

現代は決まった具体的な目的が子どもの遊びの中にまで浸透しているのかもしれません。

メディアの魔力

2024年4月19日

北海道の伊達に住んでいる友人が昭和新山の麓の雲仙の火山が激しく活動した時に、自宅から洞爺湖の湖畔の様子が見えるのに、テレビで中継されている方ばかり見ていたと言っていました。そのほうが臨場感があって、ついテレビに食い入ってしまったと話してくれました。肉眼で見ているものよりも、テレビに映された映像の方が本当になってしまったのでしょうか。

この話には今の時代の特徴的なものが反映されている様に思えて仕方がないのです。どのように説明したらいいのか迷ってしまいますが、大勢の人と共有しているという安心感の様なものがメディアを通すことで生まれているのかもしれません。自分が見たものからだけで判断する自信がなく、他人に依存するというスタンスです。自分の目で確かめただけではそれが本当かどうか確信が持てないということでもあるのでしょうか。情報社会の落とし穴と言っていいのかもしれません。

その反面、今のメディアのあり方を見ていると、それはプロパガンダの道具であり、社会的洗脳のためのものでありという本来の役割から外れたものになっているような気がします。真実を伝える手段というのはとうの昔に返上してしまったようです。しかし今でもメディア信仰は衰えることなく、それはYouTubeへと移行して、プロパガンダ普及のために大活躍です。

このことは別に今に始まったことではなく、もう何百年も前にグーテンベルクが印刷の世界に大量印刷という技術を見つけた時にも、彼の信じた「聖書によって世界に真実が伝わる」という願いとは裏腹に。すぐにプロパガンダの道具に使われ風評か広がるわけですから、時代と手段は変わっても基本は変わらないようです。

人間というのは自立しないのでしょうか。自分を信じきれないのでしょうか。そして自立したかと思いきや、一人が不安になり鬱になってしまうものなのでしょうか。天上天下唯我独尊という尊い潔い姿は、人間の儚い理想にすぎないものなのでしょうか。

 

自立、独立というのは自分を主張することではないと思っています。むしろ自立すればするほど他人が見えてくるものだと思うのですが、どうも自己主張の傾向は今でも強く、自分と他人とのバランスは悪く、自分だけにフォーカスしているようです。

自我の本来の姿は自分と他人のバランスだと思っているので、どうやら自分が可愛く思えて仕方がない時代はまだしばらくは続くようです。。