2024年4月2日
音が立って歩いている。
これは先日亡くなられたイタリアのピアニスト、ポリーニの演奏を五十年前に聞いた時の゙印象です。
2つの練習曲集の録音のはじめの曲がレコードから聞こえてきた時の驚きは、いまだかつて聞いたことのない音でした。立って、歩いているのです。そう言い表すしかない完璧さがあたったのです。ポリーニはその音たちをじっと見つめているようでした。
おそらく多くの演奏家もそうしているのだと思うのですが、ポリーニは音を信じ切っているので音は自由に歩き回ることができます。ところが、大抵の演奏家は立って歩いている音たちに手を加えてしまうのでしょう、ポリーニに聞くような純粋で透明な自由な世界が作れないのです。
余談ですが、ウィーンのクラッシク音楽の聴衆は外国の演奏家に辛口の批評をすることで有名ですが、ポリーニは五十年の間ウィーン人に愛された稀有な外国人ピアニストだったと、ウィーンに住んでいる知り合いが話してくれました。
ライアーはピアノとずいぶん違うものです。グリッサンドで弦の上をすべらせて音を出すだけで聞く人を魅了してしまいます。日本の人たちに愛されているタオライアーの音たちもよく似ています。とは言え所詮音の連続であるので、立って歩く音の世界の住人で、演奏する人たちから静かに見られていたいと願っているのだと思います。
2024年3月30日
知に働けば角がたち、情に竿さば流されるとはまさに的を突いた言葉です。その通りだと思うのですが、夏目漱石の時代からはすでに百年が経とうとしてますし、この百年は目まぐるしい変化のあった時期でもあり、知の質と情の質、そしてお互いの関わりにも変化が生まれていると考えていいのではないのでしょうか。そのあたりを探ってみたいと思います。
夏目漱石以来、私たちにとって知の占める割合は飛躍的に増大し、知一色に染められてしまった感があります。反対に情の方は遠慮がちに表舞台から姿を消してしまいました。今では見渡す限り偏差値が肩で風を切っているあり様です。
その反動なのかもしれません、「ものづくり日本」がいろいろなところで強調されています。ものづくりの質の高さは確かに誇らしくもあり、喜ばしくもありなのですが、それでも情が置き去りにされてしまっているのは情けなく、情を振り返ることがないことはいささか寂しくもあります。
情は流されてしまうと言われる様に、捉えにくいところがあることはわかっています。しかし情は雰囲気なども違い吹けば飛ぶような軽いものではなく、しっかりと存在感のある重いものだと思っています。今はその捉えにくさこそが注目されていい時代だと思うのです。ですから情に関して今はパイオニアの時代かもしれないのです。
情が活躍しているところを探してみましょう。人間関係の場です。人間同士の対話の場です。話し合っているところは人間関係の中で一番密なところと言っていいはずです。
情は目立たない、ごく平凡なところで活躍しているため、私たちはそれが当たり前すぎてほとんど評価できないでいるのです。特に最近の女性を見ると、結婚をして子育てに目処のついたら一日も早く社会復帰を考える訳ですが、家にいて子育てをしている間は社会的には全く評価が得られていないから寂しいのです。社会に出て働いていれば何らかの評価が得られます。
情の働きそのものも知性ほどは認められていないものです。知が第一なのです。情に関しては社会からの評価の対象外だということを理解しておく必要があると思っています。情はしかも主観的な世界に閉じこもっていますから、いい人だとか、やさしいとか、気が効くだとか言う評価の程度で、現象的な面を見て誉めたりしていますが、情の何たるかについては言及することがないのです。結局情を図れる物差しがないからなのですが、情についていう時は各自の都合、主観だけに頼っているのが現状です。
こんな情にどのように付き合うのかというと、情は話し合いの世界に生きていますから、相手の話をよく聞いている時、情は活発に働いていると思います。相手に本気で向かい合い、本気で話を聞くことで、大変なコミュニケーションになっているのです。もしかするとそこで情は成就しているのです。自分のコメントなどは知的な人に任せておけばいいのです。ただひたすら話を聞くことです。相手を受け入れることが情の世界に体にる第一歩だからです。相手を受け入れた時にコミュニケーションが始まるのです。
2024年3月30日
ピアニッシモに連載したドイツでの生活を綴った文章を、ライアー・ゼーレの社長小沼喜嗣氏が編集して「ヤドリギと欠伸」というタイトルで本にしてくださいました。写真がふんだんに使われた綺麗な冊子的な本です。まだ二ヶ月ほどですが、いろいろな反響が寄せられています。
皆さん欠伸をしながら読まれたり、熟読されている方はすぐに睡魔におそられて深い眠りに入るということで、あの本の役割は少しずつですが果たしているような印象を持っています。
自伝を書くつもりは頭っからなかったのに、自然発生的に自伝的なものにまとまっていたものです。そのためか読まれる方にしても力まずに読めていいのではないかと思っています。文章が軽いタッチになって読みやすくなったのは、他でもない編集をしてくださった小沼喜嗣氏のおかげですのでいくら感謝しても足りないほどです。
あの本の持つ「軽み」を味わっていただけたら嬉しいと思っています。電子書籍にしていないところも重要な点です。内容的には軽みなのですが、手にしていただいて、本という重さの中で活字を味わっていただきたいという狙いがあります。本には本の良さがあると思っています。
当初は恥ずかしいという思いもあったのですが、いざ出版されてしまうと、全ては読み手が決めてくれることだと腹が据わってしまいました。できるだけ多くの人の目に触れてほしいとも願うようになっていますので、いろいろな方に紹介していただけたら嬉しいです。