自我の中の作ると壊すの二面

2024年3月30日

自我について語る時には二つの面から捉えるのがいいように思います。外から影響を受けるものと内在する力からの影響ということです。

外からの影響については心理学者の中に、「人間は外からの影響の集大成」という人もいるほどですが、しかし自我の内なる力である壊す力についてはほとんど語られることがないのはどうしてなのかと疑問に思っています。

出来上がっている建物を壊す時も、小さな花瓶を壊す時も、また人間関係を壊す時なども、壊すという行為は基本的には暴力的な行為とみなされるわけです。さらに否定的なイメージが付き纏っているものなので、壊すという捉え方は極力避けたがるということもあるのでしょう。戦争のようないイメージも重なるのかも知れません。しかし壊れることで新しいことが始まるという面もあるので、今はそこを強調したい気持ちです。

 

しっかりした、強い自分を持つことは小さい頃から耳にタコができるほど言われ続けています。自己主張ができ、自分で判断できる成人となることが目標です。それで初めて社会人として生きて行けるのです。ここに儒教の孔子の言葉を付け加えると、三十にして立ち、四十にして迷わず、五十にして天命を知るとなって行きます。人生五十年の時代ですからここから先はありませんが、成人してからの目標です。外側から規定された年齢に相応しいものに自分を当てはめてゆくというもので、これが基本的には今日までの自我形成という考えに深く影響していたのではないのでしょうか。

私の人生の中で強く印象を受けたことに、人間の柔軟性ということがあります。社会的に名声を博し、立派に天命をまっとうしたような人たちよりも、柔軟性を持った人たちから人間の姿を感じ取っていたようなのです。人間らしさと言って仕舞えばそれまでのことなのですが、その柔軟性の奥に潜んでいる謎には興味がありました。

順風に乗ってうまくいっている時からは想像できないものを逆風に立ち向かう時経験します。逆風というのは言うなれば、自分の進路を阻む力ですが、見方を変えれば自分に気づかせてくれるものでもあります。壊す力に通じるものがありそうです。

壊す力が強すぎる時には体に大きな影響が出ます。逆風で船が沈むこともあります。形成と破壊の間にはバランスが求められます。このバランス感覚が備わった時、柔軟性を生み出されてくるのかも知れません。柔軟性を生み出すためには、勇気が必要です。固まってしまいがちな自分というものを常に壊す勇気がです。私たちは自分でまず自分というイメージを作ります。そうして作ったイメージの自分の中にさらにイメージの自分を固めて安心してしまう生き物のようです。本来そこは真空状態のままであってほしい所なのに、イメージの自分で満たしてしまうのです。それがまさに自意識過剰ということなのではないのでしょうか。

新しい自我の時代

2024年3月28日

精神生活に関心があれば自我は避けて通れないものです。自我というのは最高に位置しているかも知れません。自分探しに躍起になるなどはその最たるものでしょう。

しかし一方で自我とか自分というものはおいそれと見つかるものではないと多くの人が知っているのも事実です。私は見つけた人にあったことがありませんから自我にしろ自分は見つからないものと思っています。ですから自分探しは何をしているのかと斜に構えて見ています。

私が自我なんて言うものは見つからないというのには理由があります。人間には自分になろうとする働きと同時に、自分としてあるように見えるものを否定し壊そうとする働きがあるからです。否、それどころか自分を壊しているところが健全な自我の生活なのだと考えています。。自分は、なんて言ってさも自分になったつもりでいる姿が実は醜いのです。そう言う醜い自分の幻想を壊せることが自我の健全さなんです。

思春期までが自我形成に取って大切な時期だとしても、そこを過ぎたら固めてしまった自我とか自分を壊せるようになってほしいのです。そうしないと社会はコチコチの人間ばかりになってしまいます。

自分とか自我は自力で壊すことはできないと思っています。外からの働きかけで破壊は成就するのです。主に人の力によってです。自我を壊すためには人と会い、人と触れ合って刺激を貰わなければならないのです。これは思春期のあとに来る仕事です。

西洋文化と言うのは私の目には思春期の延長にあるように見えてならないのです。自我形成に明け暮れた歴史があります。

自我は自らを壊す前に、


壊す自我、自分を作って置かなければならないということからすれば西洋は大きな仕事をしたことになります。しかし今は自我を壊す時代です。いつまでも自我に囚われていると時代遅れになってしまうことでしょう。

魔法の一日

2024年3月27日

家の整理をしている中で、いつまで経っても終わることなく湧いてくる荷物の量に圧倒されている中で、先週から始まった最後の追い込みを驚きと感動を覚えながら振り返っています。

まず始まりは京都の方が千葉の実家に帰省するので、「日程を一日繰り上げてお手伝いに行きます」と言ってくださったことでした。私が日本で運転できないので、レンタカーを借りて大小の荷物をクリーンセンターに三往復したのがそもそもの始まりだったのです。その後、急遽、庭の物置を解体してくれる方を知り合いから紹介され、それもすんでのところで片付きと天からの助けに喜んでいたら、昨日は締めの一日がやってきました。

埼玉と東京から四人組で車で駆けつけてくださったのです。とにかく家の荷物というのは言ったように、泉の如くに溢れ出てくるもので、次から次へと車に運び込んで再びクリーンセンターを往復できたのです。前回も三度、時間ギリギリまで運び込んだこともあり、係の人とも顔見知りになっていて、本来は持ち込めないものまで目を瞑ってくださり、三度の往復でほとんどの荷物を搬出することができたのです。

お昼も食べずに四時まで一気に仕事をして一息ついた後、四人組が持参したタオライアーを取り出し私の疲れをほぐしてくださったのです。実はこれも、私を訪問してお手伝いするというプログラムに入っていたようで、喜んで楽しそうに演奏してくださり、一瞬私はライアーのお風呂の中で睡魔に襲われ寝込んでしまいしまた。その後も色々と一日を振り返りながら日が暮れて暗くなるまで楽しく音楽の話をして過ごし、皆さんは遠い帰路に着かれました。

 

この不思議な一週間を振り返ると、真空と言いたくなるような空間があることを感じるのです。そこにはいろいろな思いが集まってきて、無重力な状態の中で人の思いが出会っています。真空で、無重力な状態の中ではかえって予想外の大きな力が働いていて、普段私たちが計算しながら計画を立てるものとは違う流れが生まれている様なのです。計算で割り出された結果以上のものがそこから生まれているのです。そのことがいちばんの驚きです。

最近はパワースポットのことがいろいろに言われていますが、今回体験したいろいろな力が集まったところは、もしかすると、それが新しい意味でのパワースポットと言えるものでもある様な気がしてならないのです。パワースポットはある特定の場所とも言えるのでしょうが、人間の思いによっても生まれるものでもあるように思えて仕方がないのです。そしてそれは日常の中にも生まれる魔法のような状態なのだとも言えそうです。