録画配信

2024年3月21日

二月に京田辺で行った講演会の録画配信が昨日から始まりました。二ヶ月間の期限付きですのてお早めに。

多くの方に関心を持っていただいているようで、嬉しいです。

感想などあったら聞かせていただけると、なお嬉しいです。

コメント欄は私以外の人が見ることはありませんから、気楽になんでも言ってください。

楽しみにしています。

 

仲正雄

日常生活の偉大さ

2024年3月19日

人間の日常生活はごくごく当たり前のつまらないもののように見えますが、実際は想像を絶するほど奥の深いもので、知力では人間を上回ったと噂されるAIですら、現時点では未だお手上げの状態と言っていいあり様です。未だと言いましたが、もしかするとこの先しばらく続くかもしれないとさえ思っています。

AIによって日常生活の持つ偉大さが浮き彫りになったと言えるのかもしれません。そこに焦点を当ててみようと思います。

私は日常生活とイヴェント的生活を対比させて考えています。日常生活は母性的で、イヴェント的なものは父性的という具合にです。家庭内でも母親に支えられている日常と、父親が得意とするイヴェント的非日常とが対比しているのではないのでしょうか。母親は掃除、洗濯、料理とごく平凡な目立たない仕事に明け暮れ、父親は美味しいものを食べに外食に連れて行ったり、公園やディズニラントのようなところに連れ出し、そこで大いに得点を稼いでいるのですが、母親の毎日には点数がつかないのです。

食べて、飲んで、寝てというだけで一生が終始して仕舞えば、人生はつまらないものですから、それを超えたものが必要だということは誰の目にも明らかです。特にコロナ禍の間、映画や音楽会、演劇などの芸術家的なものがなくなった時、人を誘い合って外食する楽しみが持てなかった時に、これらが私たちの人生にとって無駄の様に見えながらとても大切なものだということに気付かされたわけです。

コロナを通して、一見無駄なものが実は大事なことなのだと知ったように、AIを通して、私たちが日常生活の場でさりげなくやっているものが、実は複雑怪奇なものの連続だということ知るきっかけになっているのです。AIは私たちの日常生活の繊細な分野にまだまだ入り込めていないのです。お皿洗い一つ満足にできないのです。ましてやそれを拭いて乾かすなどということになると絶望的です。靴磨きも、散髪もです。微細な運動の連続だからです。AIは立派な音楽を作れる様になっているそうです。絵画的にも素晴らしいものができるようになっている様なのですが、書の筆捌きは真似できないのです。音楽は優れた統計的経験で作れるのに、筆捌きは動きに、心つまり意志が伴わないとダメだからです。その時の意志というのはインスピレーションのような直感的な判断です。それは心の中で起こっているのです。

私がここでいう日常とは思考したものの積み重ねではなく、この意志が連続して成り立っているものなのです。AIは意思に近づくことはできるかもしれませんが、意志の世界、直感の世界、心の世界に入り込むことはないと考えるのです。

イヴェントはたくさんの情報から選択しながら計画して楽しむものですが、日常的な意志の連続は計画することで成立しているものではなく、外から偶発的に起こるものに瞬時に応えられる俊敏さが求められているのです。日常というのは極めて非エゴイストなのです。

 

私の印象から言うと、西洋的なイヴェント的感性にはAIは驚異に映る傾向がある様です。人間とAIわ対立させているからかもしれません。

ところが日本的感性から言えば、AIができることはAIに任せればよく、人間を超えるのは人間だけだという、西洋的観点からは謎のような余裕がある様な気がしてなりません。

 

夕闇のひと時

2024年3月17日

日が沈み、だんだんと夜のしじまが訪れます。家々には明かりが灯り始め、昼と夜とが混ざり合う魔法のようなひと時です。夜景の味わいとも違い、真昼間の太陽に照らし出された鮮明な景色とも違う、淡い空気感が目の前の景色を膨らませます。日本、外国と、場所を問わずどの風景の中にいてもこの時間が好きで、天気のいい日に散歩するならこの時間と決めています。

昼と夜というコントラストあることはあまり意識することはないですが大切なものだと感じています。人間生活にあって、起きている時と寝ている時という状態の違いをもたらしているからです。起きている時にはさまざまな活動をし、寝ている時には横になって休養します。最近は寝ている時のことがだんだんとわかってきているので、そこで報告される新事実にときめいています。寝ることの大切と昔とは比較にならないほど重要だと言われる様になっています。

日本では昔から、寝る子は育つという言い方がされるように、ある意味では寝るということに大きな意味があることは予感していたのでしょうが、いかんせん寝ている時のことを聞き出すことはできないので、長いこと科学向こう側にあったものが、今は研究技術の進化とともに、今までわからなかったことが解明してきていて、寝ている時はただ休んでいるだけでなく、昼とは違う活動をしているのだということになっています。

 

私はいつも寝ている時に、昼に行ったさまざまなことをまとめているのだと思っていました。昼の1日を振り返ると、いろいろなことを関連なく繋げて生きています。予期していなかったことに振り回されたりするものです。予定通りの1日なんていう方が少ないわけです。こうした人間の昼と夜とから生まれる営みを、樽や桶に例えていました。

夜になり1日が終わり就寝となるのですが、そこから夜の仕事が始まります。バラバラだった樽や桶の板がタガによって一つにまどめられるのです。タガとというのは竹やワイヤーで作られた輪のことで、これによって板が形を整えることになり、初めて樽とか桶として形をなすものになるのです。これを「輪する」という動詞にして、さらに字を変えて「忘る」、つまり「忘れる」とするのです。昼に行ったことは夜間に一つにまとめられるというわけです。

これが忘れるということの意味だと考えるのです。私たちはいろいろなことを学ぶ時、覚えることだけが大事なのではなく、そのことを一度は忘れる必要があるのです。忘れただけでく、私たちには思い出すという素晴らしい能力が備わっているので、忘れた中から思い出すことができ、学んだことを再現できるのです。その再現されたものは、はじめの学んだ時よりも何かが進化しています。それはうまく言葉にできないものですが、「熟す」とも言える不思議な変化です。まさに私たちは寝なければ成長しないというわけです。さらに寝なければ忘れもしなければ思い出しもしないのです。昼と夜のコントラストの中で、私たちは精神力が鍛えられているといことなのでしょう。