2024年1月23日
お正月に能登半島を襲った大地震の傷跡は未だ生々しくニュースで報じられるたびに胸が締め付けられます。
私は能登半島に足を運んだことがありません。そのためどのような風土を持った土地なのかは想像することもできないのです。ただ輪島のことだけは、行ったことはないのに、漆器の輪島塗を通して親みを感じています。実際に輪島塗のものを手にしたりしたことがあり、勝手に知っているような感じがしています。
輪島塗は四季の空気を通して乾かさなければならないと聞いて、手間のかかる作業に驚いたものでした。もっと言うと、四季の湿気を漆に吸わせるのだと言うことです。漆器は湿気で乾かすと言うのだそうです。乾燥機にかければ手っ取り早いわけですが、それではしっとり感が出ないのだそうです。
日本は空気中の湿度が高い国です。まさに湿気の国です。外国で建築を学んだ建築家が西洋風に日本で家屋を建てた時の話ですが、冬は隙間風が入らずに暖かい冬を過ごしたのですが、その次の年の夏、梅雨の湿気で家中がカビだらけになってしまったと言う話を聞いたことがあります。同じように北欧の自動車が夏に室内がカビだらけになったと言う話も聞きます。西洋の乾燥した空気からは想像を絶する湿気が日本の風土にはあります。「湿気で乾かす」なんて言い方は、湿気の多い日本でしか理解できないものかもしれません。蔵王の雄大な樹氷も湿気がもたらす雪国の冬の風物詩です。
四十七年前に日本からドイツに向かうとき、当時唯一中国を経由して飛ぶパキスタン航空を使いました。南回りというルートです。北京の次はカラチでした。日本の湿気に慣れていてもカラチの湿気は特別でした。気温が高いとか、空気が違うと言うだけではまだ中途半端な感じです。空気の中の湿気が全く違うのです。湿度というのは存在感があるものだとそこで知りました。湿度を測れば何%と出てきます。しかしその数値で言えばもしかすると日本とそう変わりはないのかもしれません。しかし湿度の質が全く違うのです。
この湿度の中で音楽をしたら相当違うものになるような気がしました。アジアの民族音楽は湿度が深く関係しているに違いないとその時気がつきました。その後カイロに飛んで、フランクフルトについたのですが、空港の設備や清潔感は羽田とよく似ているのですが、違うのは空気が乾燥していてクリアーなことでした。とにかく喉が乾くのです。水は高いお金を出さなければ買えない高贅沢な級品です。
その後私はドイ語を学べくコマを進めたのですが、語学学校のあるところのホテルで宿泊していた二日間、持ってきていたギターを自分の部屋で弾いたのですが、乾いた空の中で聞く自分の音色は驚くほど軽く綺麗に響くのです。部屋の壁が硬いので、日本の木造りの家屋とは違うのでしょうが、それ以上に、乾燥した空気の中での響き方が違うのだと感じていました。
そうか西洋音楽とは乾いた空気の中の音楽だったのだと気付かされたことが最初のカルチャーショックでした。そういえばイタリアのベルカントなどの朗々とした歌声は乾燥した地中海のイタリアの空気の中でよく響くものです。
ライアーで西洋の音楽を弾いている時、スカッと綺麗に弾くことを躊躇う自分がいます。例えばバッハを弾いているときに、知り合いから「浪花節みたいですね」と揶揄われることがありますが、なんとなく納得しているので反発はしません。乾燥した綺麗な音楽に仕上げると、潤いがなくなってしまい、綺麗なことは綺麗なのですがなんとなく虚しくなってしまうのです。ライアーの音はそもそも乾いた音です。スチール弦なので響きも硬めです。そこからしっとり感を引き出すのは、簡単ではないのです。ひと工夫もふた工夫も必要な気がするのです。現時点で分かったのは、のびのある音というのは、湿気の中の潤いのある音を彷彿とさせるものがあるようです。今日もしっとりを目指してライアーでのびのあるを弾いています。
いつか機会があれば能登て゜被災された方達にも聞いていただきたいと思っています。
2024年1月19日
人間らしいものをあげるとこの衣食住がすぐ思い付きます。自分の着たいものを着て、食べたいものを料理し、住みたいところに住む。もちろん全て要求を満たすために経済力が必要だという制約はあるにしてもです。
纏うこと、食べること、住むことは文化の根幹を作っているものです。人間は動物と違ってケースバイケースで着たいものを着ることができます。食べ物も火を使って好きなように調理できます。好きな所に居を構えることができます。
また民族衣装というものがあり、民族食と言っていいものもあり、民族を象徴する建築もあります。人間というのはそうしてみると民族を必要としていると言えそうです。民族という単位は文化を作る大切な単位と言えるのかもしれません。個人と民族が融合しているところで、人間の命は躍動しています。
今日のようなグローバル化が押し進められると、将来どのくらい民族が生き残れるのか、地上にどんな文化が生まれるのか疑問です。現実的には世界中が同じようなものを着るようになっています。ジーンズなどのファションです。また世界中で同じようなものを食べ、同じようなものを飲むようになっています。生活習慣が違うので建築はそれぞれのものが見られますが、それでも日本では畳の部屋はどんどん無くなっていて、板張りの床の洋間がほとんどになっています。こうしたグローバル化という政策を推し進める勢力は、巧妙に「民族なんて古めかしいもは脱ぎ去ろ」と奨励しますから、世界は想像以上の速さで同じになってゆくでしよう。ただあまり民族に支えられている文化を擁護すると、すぐに民族主義者呼ばわりされてしまいます。
ここ何回かブログで、伝記、自伝のことを書いたのは、人間の個としての多様性を擁護したかったからです。人間は一人ひとりが違っていいのだと言うことを強調したかったのです。それを一つのパターンに当てはめて整理してしまうというのは退屈な作業だし、それ以上にとても危険だと考えたのです。
同様のことは民族というものにも当てはまります。民族なんてそもそも幼稚な原始的な存在形態なのだから今となっては幻想に過ぎないと考える人たちがいます。また近代化の中でいち早くそれを克服して世界共通という人類的な尺度を作るほうがいいという人たちもいます。そこのところはもう一度考えるべきなのではないかと思っています。みんな同じという考え方には落とし穴があるような気がしてならないのです。食に限って言えば、世界中をファーストフードが駆け回っています。世界中のみんなが同じ食べ物で、同じ味を食べるようになってしまうというのは、思考にまで影響があるものかもしれないと思うのです。
多様性を守りたいのです。多様性を可能にしているのは、他でもない他を認めるということです。これは人間としてとても繊細な仕事です。文化の根幹にあるものです。違うものをそのままでよしとする訳ですから寛容ということです。
しかしこの寛容を逆手にとると、同じである人たちだけに対しては寛容ということにもなってしまいます。みんな同じということが権力と結びつくと、即全体主義です。もちろん政治的にはその方が合理的で、効率がいいのでしょうが、それが支配した時は過去の歴史を見ても、現代の状況を見ても悲惨でしかなかったのです。
2024年1月15日
先日来何度かブログで伝記や自伝のことを書いていたら、ライアーゼーレの小沼さんから「私がピアニッシモで書いたものをムック本で出したい」と言われたので、そのタイミングにびっくりしました。
以前ピアニッシモとに連載されていたものを編集したものです。すでに編集されたものが送られて、読み返しているのですが、ブログで嫌味を言ったような、自伝本来の体裁をとっていないので、安心しました。読んでいると自分のことなのに親しみが湧いてきました。自分で書いたことなのに、不思議に読んでいて恥ずかしいという気持ちにはなりませんでした。編集の方は自伝と名付けていますが、私の周りの人たちのことをさらりと書いているので、環境自伝、四方山話といったものです。
出来上がった時には応援お願いします。
今は歩んできた人生を振り返る年齢になりました。人生の初めの二十代、三十代の頃のことを思い出すと、今とは違う景色が目の前に広がっていました。そこの頃に偶然にも色々な占い師との出会いがあったのです。人生のこともよく分からず、それを占うということも理解していませんでしたが、乞われるままに誕生日を教えました。その中の西洋占星術の方から、「特に目立ったことのあった時を言ってください」と言われ、「十四歳と十九歳の時が大変でした」と言ったら、星と太陽と月の位置関係からはっきりみて取れると言われました。十四の時は人生とぶつかり破裂して、十九の時は自分は白痴ではないかと思い始めていたのです。人生のどこにも焦点が合わないのです。世の中の何の役にも立てない人間だと決めた頃でした。その時占ってくれた方に「占いって当たるものですね」というと、「過去はね。でも白痴で済んでよかったですね」と言っておられていました。
若い時に、占いで「あなたは総理大臣になります」と言われてそれを目指したらどうなっていたのでしょう。相当の確率で私の人生は狂っていたと思います。人生には無我夢中が一番似合います。
少年よ大志を抱けというクラーク博士の言葉や、人生に目標をもてという先人たちの言葉はそれでいいのですが、人生の予定を旅行のように組んでしまっては人生に申しわけが立ちません。頭で整理した人生設計は危険ですし今の時代には通用しないものです。
これからの人生は社会が混沌とする中で波瀾万丈になるでしょう。何があってもそれれを受け入れることしかないのです。そのためには勇気を作るのです。大変な時には勇気だけが支えになるものです。訳のわからない勇気でいいのです。そんな勇気が必要なのです。勇気は魔法ですから、人生の今を未来に向けてくれます。
今が宿命なのか運命なのかわかりませんが、どんなにとんでもないことでも、もしかしたらそれで正解だと言い放てるのは勇気を持った人だけです。
人生に答えはないのです。もしあると信じている人がいたらその人の人生は人生ではないでしょう。整理され仕組まれた人生はプログラム化されたロボットのようなもので、脳の皺も、顔の表情ものっぺらぼうになってしまいそうです。
もしかしたら今増えつつある人種かもしれません。