2024年1月12日
極端な物理学者の発言を聞いていると、目が眩んでしまうことがあります。時間も空間もない世界のことに言及するからです。
単なる物理現象ではなく、メンタルなものとして捉えれば、私の中には時間とも空間とも関わっていない何かがあることは感じています。仮にそれを真空地帯と呼んでみます。
禅で無という時、私はその真空地帯のことを想定しているようです。永遠という概念もよく似ています。
日常生活に追われているとそのことを忘れてしまいますが、時折そこに意識を向けてみることは、精神衛生上いいことではないかと思っていて、瞑想とは言えないのでしょうが、そこに一瞬だけでも意識を向けるようにしています。
芸術というのはそういう瞬間に導くためにとてもいい手段なので、わずかの時間でも自分で音を出したり、字を書いたりして日常離れを試みています。
最近発見したのは、外国語を勉強するのは、そのためにもいいものだということです。私はカズオ・イシグロ氏の「日の名残」を彼がノーベル賞をもらう以前から英語で読んでいました。とても複雑な英語ですから、簡単には読めないものです。友人のイギリス人に、この本を英語で読んでいることを言うと、「あんな難しい英語がわかるのか」と驚かれました。「私にはかつて通訳をやっていた人というサポートがいる」ことを言うと、「多分あれはイギリス人でも読みきれない人の方が多いと思う」と言っていました。
しばらく離れていたのですが、勇気を持って再会したのですが、難度は相当高く悪戦苦闘しています。しかし「英語ではこう言うふうに言えるのか」と言葉の違い、文化の違いに今更なが驚いています。これくらい日本語と離れていると、通常のでたち手段の言葉という感覚ではなく、数学の数式を解くようなものになってしまいます。
しかし言葉ですから、血の通った人間の心情などがその中に生きているのです。日の名残の謎めいた英語の向こうから、血の通った人情のようなものが浮かび上がってくるのは全くもって快感です。宇宙の彼方からの生物が地球で人間を発見した時にはこんな感じかもしれません。
時間も空間もないところから突然時間と空間が生まれような感触です。そしてそこに生きるという作業が登場するのです。
生活に染み付いた時間空間を離れる方法はいくつもあると思います。極端なことを言えば人の数だけあるような気がします。自分で一番いい方法を見つけてみてはいかがですか。
2024年1月12日
生きるって何なのかを知るためには伝記を読めと若い頃に言われたことがあります。随分昔のことで、誰に言われたのは記憶にないのですが、それで伝記なるものを読み始めました。しかしいくつか読むと、書き手の人生解釈が気になり閉口してしまいました。同時に自伝というものも読んだのですが、自らの人生をカタチにしようとしているところが出てくると本を閉じてしまい、続けられずにいつの間にか伝記、自伝を読むことは止めていました。
ただ伝記を読んで鼓舞されたという話も知っています。ある中学校の校長先生の話です。その先生は荒れた学校に転勤になってしまいました。そこで始めたのが月曜日の全校朝礼の時に、毎回歴史に名前を残すようなことをした人たちの生涯をコンパクトに話し続けたのだそうです。その成果は意外と早くきたということでした。しばらくすると、あの時の人のようなことはどのような勉強をするのですかという質問が来るようになったというのです。以前に比べる進学する高校が変わってきたということです。荒れた学校を風紀を厳しくすることで締め付けてよくすることはできないと思った時に降ってきたアイデアだということでしたが、先生は奮起して伝記を改めて読んでみると、思春期の子どもたちには格好の材料のように見えて、試すつもりで始めたのだそうです。これから人生の荒波に向かう若者たちには、一つの目標になったのでしょう。教育的に見れば伝記の持つ力に助けられたと言っていました。
もう一つ伝記を読んでよかったことを書きます。
私が興味を持っている人となるとこの伝記嫌いが逆に十冊以上読んでいます。音楽が好きなので、モーツァルトとシューベルトの伝記です。なぜそんなことをしたのかというと、書き手の立場が違うことでどのような人物像が作られるのかに興味があったからです。
読んでいると、パターンに捉われない勇気のある書き手のものが一番ワクワクします。伝記のパターンから外れているものです。一人の人間についてこんなにたくさんの、しかも違った見方があるのだという発見も驚きでした。もし一冊しか読んでいなかったらと思うとゾッとします。この読み方は今まで人生の中でとても参考になったものです。一冊の本を繰り返し読むのに似ています。一人の人間に対してこんなにも違った見方があり、表現に使われる言葉ももちろん違うので、言葉にも起用が持てるようになりました。見方によって違っていてそれでいいのだという体験でした。
こうしてみると、私の中で伝記は役に立つものとして位置付けられているのですが、「ただし」と条件付きです。ある一人の人の伝記を読むのなら、その人に書かれたものを最低でも十冊は読んでほしいということです。
最後に伝記に関して気になることは、伝記というジャンルの本を読む人は今もいるのかということです。そして逆に伝記を書くとしたらどのように書いたらいいのでしょうか。やはり出生、幼児期から始まって、成長段階を出身校などを並べて英勇談に仕立てて書くのでしょうか。そしてお金持ちに憧れる時代ですから、最後はいくら稼ぎがあった、遺産はいくらだったと締めくくるのでしょうか。
最近の現象ですが、若い人が自伝を書きます。何だか変です。
倫理観の押し付けでないもの、成功談、失敗談というおざなりのものでない人生に今の時代は興味があるのかどうか、これも気になります。
ある人が生きた人生を考えるとき、しなければならない手続きは時代的環境を調べることです。どんな時代を生きたのかです。これを無視すると今の価値観を押し付けてしまいます。今の時代に都合のいい人生を、過去のある時代を生きたその人物に押し付けることになってしまいます。
そしてその人物にとって、時間がどのように流れていたのかも考証していただきたいものです。これは難しそうです。
こんなところが伝記で言い表されたらいいのですが、私の高望みでしょうか。
2024年1月11日
人間とはどんな生き物かというと、限界を自覚している存在だと思っています。そこから限界への挑戦という、ワクワクするドラマが生まれる訳です。少なくとも人間はみんなどこかで挑戦に憧れているので、挑戦がドラマチックに見え、憧れでもあるのです。
他に限界を意識している生きものがあるかというと、簡単には見当たりません。多分ありません。動物の場合の限界は本能というものによって守られているので見えなくなっています。本能は能力なのですが、防御でもあるのです。と言うことは、結構退屈なものなのかもしれません。そしてそもそもそこには意識がなく淡々としています。
逆に神様にも限界というものはないようです。意識はあるのでしょうが次元の違う意識でしょうから想像がつきません。
意識の問題はむずしいですが、意識と呼んでいるものの中に自我の実態があると言っていいような気がします。人間は繰り返しますが本能から逸脱した生き物です。そこに自我がどのように関わっていたのかは言葉にならない部分もありますが、その時自分を意識できるようになったのではないかと思っています。自分という輪郭をです。つまり本能を捨てたことでうっすらと自分の輪郭が見えるようになり、そこから限界が見えてきたという訳です。そして限界を持つことで自我が育つという訳です。その総体を意識と呼んでいるのでしょう。
限界はただそこにあるというものではなく、そこに向かうことでしか生きた実態のあるものにはならないのです。予想も判断も役に立たないものです。そんなこと考えたことがないとか、前例がないなんて言っているようでは置いてきぼりです。知識として頭だけで「人間の限界は・・」と言っている間も、限界は死んだ飾り物です。限界が生き物に変化するのは挑戦すると決めたところからです。自我がイキイキとしてきます。
一番顕著な限界は肉体的な限界です。スポーツの記録への挑戦がわかりやすいです。登山もあります。雪山登山もあります。ヨットで太平洋を横断した人もいました。北極を反りで走り抜けた人もいました。目に見える挑戦です。
しかし限界への挑戦は肉体に限られたものばかりではありません。精神面での挑戦もある訳です。思いつきで挑戦はできないので、長い下準備が必要です。この準備が楽しい時間です。
精神的な挑戦は他人にとってと言うより自分にとっての挑戦となることが多いような気がします。自我を持っているので挑戦がある、と言うことかもしれません。あるいは挑戦によって自我が育ち、自我が育つことで目に見えるところの自分が育っているということかもしれません。鶏と卵のようなものかもしれません。
過去に積み上げてきた自分の輪郭の中にではなく、自分でもわからない未知のものの中に自我はあるのでしょう。そしてそこに新しい自分の輪郭が見えてくるのでしょう。
今年は何かに挑戦してみたいと思っています。