季語 - 俳句の呼吸

2013年6月29日

俳句の季語に日本を感じます。しかも深く、自然と人間との出会いをです。日本人の自然観、世界観がそこに見られます。

大体、季節は移ろいゆく自然現象を視覚、嗅覚といった五感を通して感じているのに、季語は言葉という抽象的な世界の中で季節を伝えます。季語は自然そのものではなく季節の中に自分をおいてそこで生きる日本人の生きざまなのかもしれません。季語にはただの季節感以上のものがあると睨んでいます。

季語が無かったら五七五は川柳だとは俳句を愛し、俳句に新しい位置づけを試み、自らも牛頓(ニュートン)と称して俳句を詠んだ寺田虎彦の言葉です。

季語を使いこなしてこそ俳句で、短い形に思いを込めるのは川柳なのです。俳句の本質を就いた名言で、今世界に広がる俳句を詠む人に是非教えてあげたくなります。勿論季語を盛り込めばそれで俳句になるかといえば、それでは体裁だけが整った、いわゆる俳句です。短い形は魅力的で、そこに詩情を、思想を込めるのは言語的、詩的アクロバットで、スリル満点ではあっても、俳句という遊びからは遠く離れたところにあるものです。

俳句は二つの時間、自然の時間と俳句を詠む人の心が動いているその時、が同居しているので、その二つの時間を一つの出来事の様に語るスリルが俳句独特のユーモアを作りだします。

俳句はあまり真顔でやって、意味に凝ると俳句のほうが逃げてしまいます。余裕がないと俳句は川柳になってしまう、私もそんな風に感じています。

しかしこの余裕なかなかの曲者です。時間という案外手ごわいものを相手にしているので、油断していては好い俳句は生まれてこないもので、自分と自然との一体感を感じる研ぎ澄まされた感性があって始めて生まれて来るものです。

 

季語は春夏秋冬の流れに沿ってはいるものの、曖昧な、ずれのあるもので、カレンダー、暦とは違うものです。日本文化の中で季節感はいつも大切なものであったのに、季語という約束事は和歌短歌の世界ではない様です。

 ところが俳句には季語が必要なのです。いや俳句は季語遊びと言っていいものなのです。俳句は感情吐露のためのものではなく、生きていることを確認するかの様に読むところがあります。ですから感情吐露には、和歌とは違って言葉足らずになってしまいます。俳句は出来事を瞬間に凝縮してしまいます。思い、考えを凝縮しただけでは生命感がなく、それが生きものになるためには呼吸が必要です。季語は呼吸の様なもので、俳句は季語で命を保っているのです。

季語が俳句の中心なのです。

季語は約束事ですが、無理やり約束事になった訳ではなく、そこには日本人に共通した季節感が生きていて、そこから導き出されています。

俳句の季語を思うと日本人の自然観が見えて来ます。季節をただ温度の変化として感じているのではなく、自然そのものの呼吸として感じているのではないかと思うのです。その呼吸にあやかっているのが季語なのかもしれません。

 季語に託した日本人の自然観をもっと感じて行きたいものです。

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