ユーモアと微睡(まどろみ)とライアー

2020年4月1日

ユーモアというのは定義したら、いや定義しようとしたときにはすでに何処かに消えてしまうという厄介者です。

漠然と捉えるているときにはなんとなく見えている気がするのですが、それ以上近づくと水の泡です。

むきになると何もかもが水の泡に帰すると言うのと似ています。定義するというのはむきになるに近いところがあるのでしょう。定義ではユーモアは捉えられないようです。

またユーモアは理屈とも相性が悪いようで、ぼんやり、曖昧なところから見ているのが良いようです。

と言うことで、この際思い切って「むきになる」をユーモアの反対語してみたらどうかと思ったのです。

 

唐突ですが、ライアーの話をします。ライアーとユーモアがなんとなく重なり合ったからです。

ライアーは、西洋の音楽が到達した、現実的リアリズムと呼びたくなるくっきりとした音楽作りとは違う世界のための楽器ではないかと思っています。ライアーの響きはどちらかといえば、非現実的と言うか、夢につながるものを持っていて、ライアーをライアーらしく弾くと無重力な夢の世界に誘ってもらえそうな絶妙な音が生まれます。

しかしそれを実際に音にしようとすると、まず私たちが慣らされてきたリアルな音作りとお別れをすると言う作業が待っています。これが意外と手強いものです。私たちの耳は相当深くリアルな音作りに慣らされてしまっていますから、いつものままでライアーを弾くとライアーをくっきり弾いて、音が目覚めさせてしまうのです。ライアーはむきになって弾いてはいけないのです。

最近久しぶりに自分の録音したライアーのCD「光のゆめ」を聞きました。バッハの無伴奏チェロ組曲の一番のプレリュードから始まり、のんびりとバッハの世界を遊んだ後、ヘンデル、クープランを経て近代のフランスの世界、フォーレ、サティー、ドビッシーへと移行しながら、ライアーの響きは夢のような世界に皆さんを連れてゆくということを願って作ったCD でした。

このCDを聴きながら朝の微睡んでいる時間のことを思い出していました。朝方、目が覚めてしばらく布団の中で微睡んでいる時の、穏やかな至福の時間です。ライアーの音はその微睡に近いもので、そののんびり感を久しぶりに堪能しました。

(ところが、ライアーをむきになって弾いてしまうと、目覚ましで起こされて、ざわざわと一日を始めるような慌ただしい目覚めの音になってしまういます。)

 

微睡んでいるときは半分はまだ夢を見ているのかもしれません。しかしその間に、時間にしてほんの僅かだったりしますが、実に沢山のことが頭の中を交錯します。今まで考えたことの無いようなことを思いつくこともあります。特に講演会の日の朝の微睡んだ時間は、まさに至福の時間で、そのわずかの時間の中で、その日の講演で話したいと思っていたことがいっぺんにまとまってしまうことすらあるのです。現実から遠く離れているが故に起こる空白な時間の中での出来事です。無垢で、純粋な時間です。ところが、驚くことなかれ、凄いエネルギーが凝縮した時間でもあります。

ユーモアというものも、そんなエネルギーの凝縮を感じるのです。

 

ユーモアから多くの人が笑いを想像すると思うのですが、笑いを得ようとしたらユーモアは功利主義に陥ってしまい、ユーモア本来の姿ではなくなってしまいます。利益に従ってしまえば倫理的なものから離れてしまうのと同じです。ユーモアは倫理的なものと同じところからやってくるものでもあるのです。

このユーモアがなかったらと考えたら、背筋がゾッとします。人間は、人間らしく生きてはゆけなくなってしまうからです。心も体も干からびた、かすかすな生き物がそこにはいます。損得で生きるときに倫理が消えてしまうようなものです。

人間の現実はドロドロしています。ところが、人間は駆け引きの無い世界も生きています。欲もなく、無垢で、お人好しで、なんの役にも立たない人間の姿です。

実は、そこから、とんでもなく大きな力をもらって、私たちが日常と呼ぶ毎日は繰り返されているのです。

 

私たちはみんなユーモアを持って生きているのです。ここはとても大事なところです。しかも多大な恩恵を被っているのです。それにもかかわらず、それがユーモアだと気づかずにいるだけなのです。

 

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