国語・算数・理科・社会の中の国語力

2021年12月27日

国語・算数・理科・社会、小学校の時の主要科目です。
国語が一番先に来るのは、国語が一番大事だと考えていたからでしょう。
読み書き算盤と言っていた寺子屋時代を見ても、国語が一番大事だったことが伺えます。

国語の力と言うのは、読めたり書けたりできる漢字の数などではなく、言葉の理解力、文章の理解力と言うふうにも言えるのでしょうが、言葉という海の中を泳ぎながら言葉に溺れずに浮かんでいられる力のことです。
時々言葉音痴と呼びたくなるようなお子さんに出逢います。大人もたくさんいます。その人たちは言葉の海に浮かんでいられないので、「カナヅチ」と呼ばれ溺れてしまいます。

この国語力を高めるにはどうしたらいいのかと言うのに答えらしいものはないのです。
この国語力というのは不思議なもので、そのためのドリルがありません。
コンピューター、スマホの普及で、最近の子どもたちの国語力が低下したという発言を時々聞きますが、私はあまり信じていません。
国語力と言うのは何か特別なドリルを使って訓練すればつくのかと言うとそうではないように、コンピューターやスマホが普及した程度のことで、致命的な打撃を受けているものでもないと考えているからです。少しくらいは影響があるでしょうが決定的な影響ではないと思います。

では何もしない方がいいのかと言うとそんなことはなく、小さい頃からの読み聞かせ、それと少し大きくなってからの読書からものを理解したり感じたりすることを繰り返すのは国語力の下地を作るには大いに役立つと思います。
私は国語力のためのものがまだあるような気がしているのですが、今は思いだせません。

国語は文科系と相場が決まっていますが、私は理科系でもあると思っています。
理科系の人でも国語力がないと論文を書く段になって、考えた事や発見した事柄をまとめる力がないですから、せっかくの物が日の目を見ないで終わってしまうのです。数学も物理も生物学も機械工学も言葉に支えられている部分が案外多いものです。
そもそもロゴスは、言葉とまず訳されますがもっと包括的な言葉です。馴染みやすいのは「初めに言葉があったむ」というわけです。この時の「言葉」は「ロゴス」のことです。そしてロゴスというのは、数学、物理といった理解系を支えているロジックの大元なのです。ですからどう見ても国語は文化理数系ということになりそうです。

ただ国語力の中でも表現力と言うのはこれまた別で、本をたくさん読む人が必ずしも表現力を読書で鍛えているかと言うと、直接の繋がりはないようです。読書はインプツトで、表現力はアウトプットですから、国語につづく算数理科社会からの沢山の情報量がものをいうもので、それらによって鍛えられた想像力によって表現力は培われているようです。
言葉を立て板に水のように喋りまくったからといって表現力があるとは誰も言いません。案外訥弁の人の方が接得力があったりするのですから、言葉の量ではなく、言葉の質が問われていると言えそうです。

国語力は、最後にいっておきますが、とどのつまりが言葉をも超えた力に支えられていると思います。
そもそも国語力が問われるのは小さな子どもの時ではなく、成人してからです。
つまり何が言いたのかというと、言葉で考えることを超えて直感的な感性をとぎすまることが、国語力を育成するために大切なことのような気がしているのです。言葉を超えるためには言葉の海をしっかり泳いで、泳ぎ切った時に新しい水平線が見えてくるのだと思います。

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