生まれたばかりの音楽、ハイドンの音楽

2022年10月12日

最近よく聞く音楽はハイドンとシューベルトです。

正直にいうと、これは最近のことなどではなく、今までもずっとこの二人の作品は聞いていましたし、きっとこれからもずっと聞き続けるだろうと思っています。

今日は大好きなハイドンのことを書いてみます。

彼の初期のシンフォニーを初めて聞いたときの新鮮な驚きは今でも忘れられません。それは6番と7番でした。それまではシンフォニーといえばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルックナーといった重っ苦しいシンフォニーばかりでした。

ハイドンの一桁の番号のシンフォニーは別世界のものでした。「今さっき生まれたばかりなのではないか」と思ったほどでした。それは赤ちゃんの笑い顔に癒されるような微笑ましい驚きで、音楽でこんなことが起こるのが不思議でなりませんでした。そして「なぜこういう音楽がちゃんと評価されないのだろうか」と、それ以来ずっとハイドンの味方なのです。

ハイドンの6番、7番はモーツァルトの若い時の作品の方が年齢的にはずっと若いのですが、どこかに憂鬱的な翳りを引きずっています。これはヨーロッパ音楽の中にいつの頃からか入り込んできてしまったものです。私はドイツのバロック音楽に起因していると思っています。

ドイツバロックを代表するバッハの死後もヨーロッパ音楽はバッハの亡霊に取り憑かれたままでいましたから、そうした環境の中でハイドンの様な音楽家が生まれたことは一つの奇跡です。

ハイドンは三十年もの間ハンガリーの貴族、エスタハージー侯爵のお抱え音楽師でしたから、今日いうような芸術家というタイプではなかったはずです。どちらかといえば公爵のお城から出たことがない閉鎖的な職人音楽師だったのでした。

料理人に例えればグルメの人たちが通う様な高級レストランのシェフの作る奇抜な料理ではありません。かと言って場末の食堂というのとも違います。唯一つ例えられるのは「まかない料理人」です。いつもシンプルでとっても美味しい料理を仲間たちに作る人です。食材も知り合いの農園で採れたもので、気心の知れた料理で。いつも食べられる、懐かしい料理です。また食べたくなる様な味で、私はそれが家庭料とならぶ料理の原点だと思っています。食べていてホッとする料理の様にハイドンの音楽にはホッとするものがあります。

先ほど言いました「今さっき生まれたばかりの様な音楽」というのは普通は音楽体験としては話題にならないものです。そんなことより哲学的な、あるいは政治的な難しいこと、高尚なことを話題にする方が好まれるからです。音楽も難しいものになってしまいました。そしてそうした一般好みのテーマで音楽を語っているとハイドンの存在は指の間から水がこぼれてしまうように消えてしまいます。

ハイドンは大仰な振る舞いが似合わない人です。ここで共通していると思うのがシューベルトです。二人とも難しいことには縁のないのです。私が二人の音楽を好んで聞くのは大仰な言葉に満ち溢れている空間から僅かの間離れて居られるからです。

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