2022年2月6日
私には母の旅立ちの日が近づいているように思えてならないのです。
そんな中久しぶりに音楽の海の中を泳いでいたいと思う気持ちが湧いてきました。母との思い出のあるモーツァルトを聞いています。当時一番聞いていたのはピアノ協奏曲でした。
モーツァルトのピアノ協奏曲は一時期本当に好きで、それを聞いているとモーツァルトの幸せを感じたのです。経済的生活環境は困窮し大変だったので、物質的に幸せを享受できていなかったと思われますが、ピアノ協奏曲には音楽で幸せを感じていたモーツァルトがいます。至る所に天上的な伸び伸びした明るさが現れてきます。素直に一緒に喜べるのです。この音楽が今の母に相応しい音楽のように思えて、しばらくご無沙汰していた懐かしいモーツァルトのメロディーを満喫しています。21番のハ長調の第二楽章を聴いた時には目頭が熱くなってしまいました。モーツァルトの音楽は音楽のオーラと呼びたくなるものがあります。包み込む響きがオーラのようです。
モーツァルトの「天上的かるみ」を聴きながら、母が一番行きたいところに行ってくれたらと願うだけです。
2022年2月6日
糸に操られて動くマリオネット人形はぎこちない動きの中に余韻を残しているのが魅力です。それは人間の動きとは違うものですが、しばらく見ていると人形であることを忘れることもあります。
ドイツの作家、クライストはこのマリオネットの動きを詳しく観察して、人間の動きからは感じられない、人形の動きの中に隠れている魅力を整理しました。舞台などで動くことをお仕事にされている方にはおすすめの読み物です。20ページほどの小説仕立てにした簡素なものですが、考えさせる視点が凝縮しています。
簡単にいうとマリオネットの動きは理想的なのではないかということです。
人間は自由意志で、自由自在に、思いのままに動くことができると考えるのが普通です。人形の糸に操られている不自由な動きと比べて、それを自由な動きと見るのですが、思いのままに動ごけるから自由だとするのは、単なる思い込みであったりするという落とし穴に落ちるものです。
マリオネットに限らず人形浄瑠璃の人形の動きも別格の美しさを持っています。人形の淑やかな動きは役者さんのものとは違い、ぎこちなさ故の妖艶さがあります。フランスのダンサーで親しくしていた人が「日本に行くたびに見るのは文楽です」と言っていたのは、人形の動きから何かを学んでいたのかもしれません。
若い時に「まだなんの苦労もしていない手だなぁ」と私の白魚のようなか細い指を見て言われたことがありました。のほほんと自由気ままに生きてきたのですから、障害物に出会ったこともないわけで、苦労はしていませんでした。その人は「苦労しなければ分からんことがあるんだ」と言って去ってゆきました。その言葉はずっしりと若い私の中に落ちてゆき、ことあるごとに自分の手を見る習慣がついてしまいました。今は少しは苦労した手になっているかもしれません。苦労しないと、というのは不自由を感じてということで、そこから自由という境地に初めて向かえるということと解釈していました。
無我夢中で生きているときは、自由のことなど考えないものです。それは自由と程遠いからではなく、無我夢中という豊かさの中で充実しているので、自由のことなど考えなくても済むのです。
自由というのは、良くも悪くも自分との間に隙間ができた時に考えることなのかもしれません。何かの方程式の別の言い方だと思っています。自由というものがあるのではなく、自由というのは導き出すということが大切なことだということかもしれません。私というのはその方程式から導き出された答えのようなものです。しかもその方程式は一つだけでなく、人の数だけあると言っていいいと思います。
マリオネットは糸によってしか動けない不自由な存在です。その糸は人形と、人形を操る人の間にある方程式のようなものではないのでしょうか。
この糸は自由の糸と呼んでいいものなのかもしれません。
2022年2月5日
先日手仕事をしながら音楽を聞いていました。いや音楽を聴きながら手仕事をしていたという方が事実にそぐっています。実を言うと大変な「ナガラ族」なんです。
そこで聞いていたのはモーツァルトのジュピター交響曲でした。この曲を最高の交響曲と褒め称える人は昔も今も後を絶ちません。モーツァルトの音楽の中では重厚さがあり、堂々とした音楽ですから、「ナガラ的」に聞いてはいけない様な音楽なのです。正直少し後ろめたさを感じながらこの曲を選んだのですが、素晴らしい発見がありました。
モーツァルトの音楽には聞き手を包み込むものがあるということです。手仕事の手を止めることなく、音楽に包まれながら気持ちよく仕事が捗ります。
コンサート会場でこの曲を聴くとなると、この曲にしっかり立ち向かうように聴きます。真剣に聴ききます。
しかし手を動かしながら聞いていると、聴き方は全く違って、音楽を片手間に聞くわけですから、コンサートホール的ではなく、リラックスして気楽に聞き流しながらとなります。こんな状況の中で新しくモーツァルトに出会ったのです。
そうして聞くモーツァルトはなかなかいいものです。仕事をしている私が音楽にすっぽりとつつまりた様な感じで、手仕事も捗るのです。YouTubeで聞いていたので、自動的に次の音楽に移行します。気がつかないうちに音楽が変わっていて次はベートーヴェンの第3番の交響曲「英雄」でした。今まで音楽に包まれて滑らかに手が動いていたのですが、この音楽は、仕事の邪魔をするかのように私の注意を引こうとうるさいのです。その度に手が止まってしまうのです。この音楽は自立していない子どもの様で、「ねぇ、ちょっと聞いてよ」と私の注意を引こうと一生懸命なのです。どうでもいい手仕事ですが仕事をしているので手は休めたくないので、ての方に気持ちを集中させ聞くのをやめようと思うのですが、しつこく「ねぇ聞いてよ」と言わんばかりに私にちょっかいをだしてくるのです。「うるさいやつだなぁー」と10分もしないうちに消してしまいました。
主張しないと言うことの偉大さを、しかも「ナガラ族」をやりながら発見したのです。
これは同時にモーツァルトの発見でもありました。モーツァルトも、もしかしたら「ナガラ族」だったのかもしれません。あるこれを同時に幾つもやってしまうようなタイプだったのかもしれません。しかしそのことで一つのことに固執することなく、そして向きになって主張することなく音楽の偉大さを伝えることができたのかもしれません。
モーツァルトの音楽のかるさはよく言われますが、実は「かるみ」と言う方が多々しく、存在感のある無重力ということです。
今日はピアノ協奏曲21番の第二楽章を聴きたくなりました。天上を明るく無邪気に遊ぶ子どものような音楽です。この素直さにはいつも驚かされます。
私たちの模範かもしれません。私は悟りよりも大きなものを感じます。