一般人間学から普遍人間学へ

2021年12月18日

今までにも何度か告知してきていますが、このコロナ禍を利用して「一般人間学」を翻訳します。
この講演集は私的には「普遍人間学」と呼ばれるものだと思っています。一般的な人間像ではなく、普遍性のある人間像がシュタイナーが提示したかったものだと思うからです。
シュタイナー学校設立に当たって行われた二週間の会議の際、午前の二時間を、彼が考える人間像を教育との関連で講演したものです。すでに百年という時間が流れていることを考慮しなければならないわけですが、内容的には今日読んでも未だ斬新で示唆に富むものが多いのに驚かされます。中には今日でも未だ理解不可能というものすらあります。
自分の勉強のためにと、今までの自分を整理するためにという思いから翻訳することに引っ張られてゆきました。
実は、すでに優れた翻訳が二つありますから、今更もう一つ翻訳を加える必要などないのですが、翻訳に踏み切った理由の一つが、今までの翻訳は素晴らしいにもかかわらず読みやすいものではなかっことがあります。この点に留意して、流れのある文章に変えたら、多くの人がこの本からもっとインスピレーションを受け取れるに違いないと思い「翻訳してみよう」という気になったのです。知的に理解するよりもインスピレーションが大事だとシユタイナーはこの本の中でも繰り返しているので、それに従ったとも言えます。

この本の位置付けは、学校設立を意図しての講演です。しかもこの本にまとめられたことを出発点として学校運動に展開していっているので、「シュタイナー学校運動はここから始まった」という記念すべきものとして、原点に立ち返るという気持ちで読まれているシュタイナー関係者が多くいます。その意味で貴重な資料でもあると言えます。

私がこの講演集に深い思い入れがあるのは、初めの講演の冒頭でシユタイナーが「倫理的」という観点を持ち出しているからです。教育は知性の養成が目的ではない、「倫理」が語られない様では教育ではないと断言します。間違ないでいただきたいのは、知性なんかどうでも良いことだなんてことは言っていないことです。知性以上に大切なものが教育にはあるのだと言っているだけです。それと「倫理・モラル」の内容です。押し付ける倫理ではなく、子どもたちが倫理を悟るように導くことです。さらに付け加えると、「霊的世界へ関心を向けること」です。もちろん宇宙にもです。

しかしこれらを実際の教育の中で実化現するのは易しいことではありません。
実際には別の教育思想を背景にしたいくつかの教育実践が、興味深い結果を出して、新しい教育の姿を実現していたりしています。シュタイナー教育だけが斬新な教育をやっているのではないのです。子どもとしっかりと向き合う教育が、教師の人間性が命と考える教育が、いくつも生まれています。そこで子どもたちはのびのびと成長しています。子どもたちの成長がしっかりとサポートされているのが手にとるように感じられる教育です。
そんな中でシユタイナー教育の面白いところはどこかというと、教育、医療、農業、社会組織、宇宙論、人類史、歴史、哲学、芸術が、大きな一つの有機的組織体だという見方をしていることです。単純化しているのではなく、それらの底辺に流れているものには共通した物があることを示していることです。単に大風呂敷を広げているのとは全く違うものだと思います。人間はそれくらい複雑なのだと言うことかもしれません。同時に教育というのはそれに並行して難しいものなのです。

シユタイナー教育、シュタイナーの世界観は今日のスピリチュアルな流行の中で隔離されている感があります。シュタイナーは霊的な世界、宇宙的なことに触れていますが、それは今日のスピリチュアルのスタンスとはいささか違うもののような気がします。ツールとしてのものは似ていても、向かっている方向が違うのかもしれません。この点にはいずれゆっくりと触れたいと思っています。一つだけ例えれば、シュタイナーも瞑想のことをしきりに取り上げ推めています。今日では、瞑想はしっかりと文明社会に根を張ってしっかりと位置付けられています。サピエンス全史の著者ハラル氏の新作「レッスン21」も瞑想の重要性に触れています。
思考と瞑想の関わりもシュタイナーは独特の展開を見せます。思考を克服し、直感を磨くように仕向けます。克服ですから捨てる、放棄するのとは違います。思考する存在である人間にも愛情を持って接します。その上で克服を促し直感に誘うのです。
知識と先入観で語ることをやめ、直感的に人と人が出会えるようになれば、多くの力が集まってくるような気がしてならないのです。

過去と未来の捉え方、そこに人間として思考と意志が関わってきて、そこから教育の課題を導き出します。ただ単に知的に理解することはできないものばかりです。まさにそれだからこそ、瞑想によって培われる直感が必要になってくるのです。子どもたちも将来は知的な理解だけでは間に合わず、直感的な理解を必要とすることになるとシュタイナーは言いたげです。

なぜ教育にこんな話が必要なのかと思うのが今日の一般的な常識です。教育が社会の制度、社会システムのための道具になり切ってしまった社会を私たちは知っています。そこでは教育とは合理的なものでなければならなかったのです。合理的に、効率よく社会に役立つ人間を育てれば、それが良い教育だったのです。今日ではそこへの反省が顕著とはいえ、基本的には教育は社会に貢献するものと言う考えは継続しています。
シユタイナー教育の基礎的な考え方は、今の社会が求めるものに迎合するだけでは人間として不十分だと言いたげなのです。これは教育の将来に通じる長い道程だと言えます。今すぐ結論を急ぐと却って脱線しそうです。

気になる上から目線

2021年12月14日

知るものは語らず、語るものは知らずという老子の言葉、いつも肝に銘じています。
この考え方からすると、上から目線はもっての外の困りものです。
私にはこの上から目線が今の社会の中心にあるように思えて仕方がないのです。
社会的発言をする人は、政治家だけでなく子どもでも大人顔負けの上から目線ですから、聞いていて疲れます。
しかも上から目線には大抵内容がないと決まっています。

自分を使者だと思い込んでしまうのでしょうか。
天の声に導かれての発言なのでしょうか。
いずれにしろ、高飛車な上から目線は社会をギクシャクさせます。
この上から目線、大抵は根拠がないだけに余計困りものです。
しかし民衆を導くためにはそうした姿勢で民衆に向かわないと民衆はついてこないのも事実です。
穏やかな口調では牽引力がないので、少しくらい高慢な態度が求められるのでしょう。

この目線は、どことなく非人間的と言ったら言い過ぎでしょうか。
もしかしたら悪魔の仕業かもしれないと思うことがあります。
悪魔は悪魔っぽく現れることは絶対になく、善人らしい振る舞いを見せるものです。
しかも善人振る舞いの優れた才能があり、非常に長けているので、なかなか見破れません。
そんな中で、悪魔を見破るためのものが一つあります。
それが視線です。目線です。
悪魔たちは上から目線しか知らないので、たとえ善人を上手に振る舞ったとしても、そこには上から目線だけは残ってしまうのです。

上から目線の正体は、天の声などではなく自惚れです。
自惚れは悪魔のおこぼれですから、これを磨いてゆくと立派な悪魔になれること請け合いです。
上から目線の背後にはいつも自己正当化というもう一匹の悪魔が潜んでいますから、ますます厄介です。

はいといいえ、肯定と否定。あるいは自我について。

2021年12月13日

人生というのはこの二つを混ぜて成り立っています。
英語ではYesとNoです。

日本語では「はい」と「いいえ」なのでしょうが、ちょっとインパクトが弱いです。
「はい」はYesと同じとはいえないからです。「はい」にはもちろん肯定する意味があるのですが、「はい」と返事したからと言って、必ずしも肯定したというわけではないからです。「はい」は肯定に至る途上にあるものです。

小さな子どもは周囲を肯定的に受け入れています。幼ければ幼いほど「全面肯定」です。もちろんついさな子どもでも時々は「いやいや」のような仕草をしますが、基本は肯定です。周囲に全幅の信頼を置いているともいえます。だから、言葉をあれだけの速さで正確に学なべるのです
大きくなるにつれて、全幅の信頼はだんだんと薄れてゆきます。そのため言葉も小さい子どものようには覚えられなくなってしまいます。さらに成人した時には、子どものような習得力はもう無くなっていますから、多大の努力が求められるのです。

思春期は「否定」一色です。なんでも反対するので「反抗期」というニックネームが付けられています。
自分の周りにあるものに対して、今までとガラッと変わって、否定的な目を向けるのです。
このプロセスはとても大事で、ここを通らないと、思春期以前の子どものように、生半可に周囲を信じている状態がいつまでも続き、成人しないのです。
思春期の時に「否定」しているのは、周りだけでなく、自分自身をも否定しているのです。これはとても辛いことであり、危険なことでもあります。自分を極端に否定したら自殺に追い込まれるからです。
しかし人間として自我を持った存在に成長するためには、この「全面否定」は大切な通り道です。
ありがたいことに人間は否定してもなかなか否定し切れるものではないようです。私はこのような立場をとります。楽観論、性善説です。
こうした「全面否定」の中に一条の光を見つけることができれば、人格が強められます。自我の誕生です。
自我は単なる自分という意識ではなく、否定し尽くした中から蘇る今までは、同じように見えて全く異なった自分なのです。そのために単に自分と呼ぶのではなく、特別に「自我」と呼ぶのです。自我は否定の中から蘇った自分ですから、揺るぎない強さを持つものです。自分を否定したところから蘇った人は、他人を理解する力を備えるようになります。それまでは他人というのは責任をなすりつけるものだったのではないかと思います。今は責任は自分が取り、他人は理解の対象になったのです。
この清々しい自分、これが自我というもののような気がします。外からは自分も自我もおんなじもののように見えるのですが、中身は雲泥の差があるものです。