出世と悟り

2021年12月11日

出世と悟りを並べるだけでバチが当たりそうな感じがします。
でも私にはこの全く正反対のようなものが実は同じ根っこからのものだと感じているのです。

出世は物質世界の名誉欲の一種なので、しっかりと名誉欲に通じるものと見られています。

ある時ご馳走になった時に「これは出世払いね」と言ったら、聞いた方は少々びっくりして「仲さんの口から出世なんて言葉を聞くとは思わなかったですよ」と笑われてしまいました。どうやら私は出世とは無縁の世界を生きているように思われていたようなのです。
確かにお見通しのように、私にはあまり出世したいというところに情熱を感じていません。そのために努力をするなんて考えられません。

世の中を一般的にみると、精神主義的に生きている人の中はストイックな人が多いので、出世などははしたない事と思っている向きもあるようです。私の場合は、出世をしたいと菅張っている人を見た時に、その人を純粋だとは感じても、欲の突っ張った人だとかいう眼差しは向けません。

先程の精神主義的な人は悟りを開こうと頑張っている人を見てなんと感じているのでしょうか。名誉欲、出世浴の突っ張った人とでも思っているかもしれません。
悟るというのは、精神修行を積んで到達するところです。そこに到達するには並大抵の努力では足りません。しかもそうした修行の中身は大抵はストイックなことの連続です。よくを捨てたと思われています。

出世浴という言葉がありますが、私は悟り欲という言葉がないのが不思議です。悟りはストイックなことなので、欲とは正反対だと思われているからでしょうか。
私には悟り欲もストイックなのは反面だけで、もう半分は大変な情熱によって支えられているものだと思います。この情熱は出世欲の時のものとほとんど同じものだと言えるはずです。しかし出世というのも肘鉄でもって人を押し分ければできるのかというと、そんなことはなく、自惚れはダメで謙虚さが人徳として認められるものです。そうして初めて人望が募り多くの人に推薦されて要職につくということもあるのです。そこには精神修行に通じる何かがあるはずだと思っています。案外ストイックなものなのかもしれません。
悟りはストイックであり、純粋でありと精神性を境地擁する言い方ばかりが目立ちますが、情熱がなかったら、つまり欲がなかったら修行は続けられないものです。

私は生来の怠け者です。これは確かなことです。
ですから出世にも、悟りにも無縁に生まれついているようです。

自画像

2021年12月10日

もし私に絵を描く才能があったら、果たして自画像なるものを描くだろうか。
絵心のある人にしてみれば、自画像というものは一度は描いてみたいものなのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていました。

スイスで勉強しているときに、今から四十年も前の話です、一週間、粘土の時間があって、そこで赤ちゃんの顔、思春期の頃の顔、成人した時の顔と作ったことがありました。赤ちゃんの顔を作った時に自分の赤ちゃんの時のような顔を作ったのには我ながらびっくりしてしまいました。他の顔は色々と工夫をして、思春期を表現しようなどという下心が働いたせいか、自分とは程遠い物でした。成人もだいたいそんな感じでした。ただ自分では自分に似ているとは思わなかったのですが、一緒に作っていた仲間達には、私の面影がたっぷりあったようです。自分の顔を鏡に写して粘度をこねているのではないので、自分によく似たものが出来てしまうのがとても不思議でした。

文学の世界に目を転じると、私小説は自画像と関係するのかどうか。極論すれば、何を描いても自分を描いてしまうような気がします。

音楽で自分を出そうなんて考えて作曲したら、どんな音楽になるのでしょう。こうは言ったものの、考えただけでも気持ち悪くなります。ただ、例えばモーツァルトの音楽を聴くとします。すぐに「これはモーツァルトだ」と分かります。ベートーヴェンもハイドンもバッハもマーラーもショパンもだいたい察しがつきます。彼らの誰一人として、彼らの作品を作るときに、自分を作曲しようと意図していたものではないと思います。
ところが聞いてみると、丸々自分になってしまうのです。

私の個人的な感想かもしれませんが、現代人というのは、必要以上に自意識で固められているような気がします。だからと言って自分がよく見えているわけではないのです。
自分というのは、自分であろうなんて意識しない時に一番出てくるものなので、現代ほど、却って自分から離れている時代はないのかもしれません。自意識に凝り固まっているが故に却って自分から遠く離れてしまっているのかもしれません。そのために個性個性という宣伝文句が持て囃されるのでしょう。本当の個性が欠けているのです。

もし私に絵心があったら、時間をかけて自分の顔と付き合ってみるのも面白い退屈凌ぎになるかもしれません。
もしかしたら絵心なんてない方が味のあるものが描けるかもしれません。似てなくてもいいわけです。絵全体が否応なく自分になってしまうでしょうから。

クリスマスプレゼント

2021年12月9日

今ドイツで一番盛んに交わされる話題は、クリスマスプレゼントのことです。
社会的にはしっかりと定着した習慣です。それどころか、半ば義務化されているようにも見えます。
個人的には、クリスマスプレゼントに限らず、プレゼントという、作法、儀礼は苦手です。

日本語でプレゼントにあたる言葉を探しても見つかりませんが、英語ではもう一つの言い方があります。それはギフトです。プレゼントとギフトは何が違うのでしょう。

恐ろしいことを言いますが、ドイツ語でギフトは毒のことです。毒を盛ることがギフトなんです。死をプレゼントするということでしょうか。
言葉の由来を説明すると、ギフトは与えるというGeben、英語ではto giveです。人が人に何かを与えるというのはなんとも重苦しいものを感じます。
ギフトなんかもらっちゃいけないのです。そこには下心があるのかもしれないからです。どんな下心かは分かりませんが、ギフトには本意が隠されているのです。
こう言って思い出すのは賄賂です。袖の下です。お役人さんの世界では当たり前のことなのだと子どもの頃に聞いてから、お役人さんを見る目が変わったものです。

プレゼントは前に(プレ)差し出す(セント)という意味から生まれたものでしよう。プレゼンテーションなどもその系列です。
プレゼントは「はいこれ」と言って渡すような物ですが、ギフトとなると物々しい感じがします。ギフトの方がプレゼントよりも重厚です。儀式のようなものの中で、贈りものの授与式のような感じです。「はいこれ」で済ませられるようなもののやりとりではないようです。公に行われる賄賂のやりとりのようなものなのでしょうか。
ちなみに英語のギフトは天賦の才能という意味ですから、天から授けられたという意味が含まれています。やはり重々しい感じです。店名を全うしなければならないので、もうそこから逃げられないと言った感じがします。賄賂も貰ったら最後そこから逃げられません。

ただ私といえども、ある人にこれをプレゼントしたという純粋な気持ちになることもあるのです。本当に純粋に、「あの人がこれを見て喜ぶ顔が見たい」という、子どものような純粋な気持ちにです。

クリスマス商売の邪魔をするつもりはないのですが、やはりプレゼントは苦手です。こんな風習が早くなくなればいいと思っています。

日本語ではプレゼントの代わりに、お礼をします。
神社も本来はお願いに行くところではなく、というのは神様は人間の望んでいることぐらいお見通しなのでそんなことをしなくてもいいのです。神社にはお礼にゆけばいいのです。つまりお礼参りが本道だということです。
そんなものならいただいても悪い気がしないかもしれません。