世界地図の話からエゴの話まで

2021年12月7日

講演会で話の中身を捕捉するために世界地図を使ったことがあります。
平面化された世界地図になれていますが、あれは便宜上のもので、実際の地球は地球儀で見るのが一番です。
平面に写し出された地球と地球儀の地球の違うところは、平面の地球には中心があると言うことです。
日本で作られた世界地図しか知らないと、これが世界で使われている世界地図だと勘違いしてしまいますが、ヨーロッパで作られている世界地図とアメリカで作られている世界地図と、オーストラリアで作られている世界地図は同じでは無いのです。
何がつがうのかというと、何が真ん中に来るかです。
日本で作られている世界地図の真ん中は太平洋です。それによるとヨーロッパは左端になり、ポルトガルは極西です。ヨーロッパで作られているものは太平洋が分断され日本が極東に位置し、アラスカが極西です。アメリカの世界地図は、ユーラシア大陸を分断しています。更に不思議なのはオーストラリアで作られている地図です。南北がひっくり返っています。基本的な位置は二本のものと同じですが、その地図の中では北海道が下にあり、九州が上になります。ただこの地図はいまだにイギリスの属国であるオーストラリアでは正式の地図として作ることは許されていないものです。1990年代に初めて簡易的な地図として作ることができるようになったものです。世界地図には相応しくないペラペラな紙で、印刷も素朴な色彩で、オーストラリうがいまだイギリスの属国であることを象徴しているような地図です。

世界地図を作る際にも自分が中心になるのだと言うことを、色々な世界地図を見て感じます。自分とは、そもそもの自分から始まり、自分の国であり、自分が存在している地域です。ヨーロッパの世界地図はヨーロッパ共通のもので足りるのです。

いやはやこれが人間の業、人間の性なのかと見せつけられる思いです。
人間が宇宙地図を書いたときも地球が中心でした。それがだんだんと変化し、今では地球が銀河星雲の中のどこにあるのかを自覚できるところまで来ました。
しかし意識はまだまだで、地球以外に生命は存在するのかということが平気で言えるのです。基本的には地球にしか生命体はいと言っているような感じです。地球中心の考えがそのまま延長したものです。

自分中心は克服できるものなのでしょうか。
聖書の中でイエスは「隣人を愛せよ」と言っていますが、二千年を振り返ると人類の歴史は全く逆のことだったような気がします。
自分中心を克服するのは、自分の立場に拘らないと言うところから始まります。つまり自分が自分でないというイメージから始まります。自分の家に、マンションに「お邪魔します」と言って入ってゆくようなスタンスです。
しかしこれが実際にはとても難しいことなのです。宗教を持たれている方は、自分が信じている宗教のことを考えれば、それがどれだけ大変なことかがよくわかると思います。もしこれが簡単にできるものであれば、世界に戦争はないような気がしてなりません。

しかし人間は「平和ボケ」などと言う言い方も作り出しますから、平和が絶対的にいいものだとは考えていないのでしょう。たまには戦争があったほうがいいなんて考えているのでしょうか。

今言っていることは、畢竟はエゴにつながります。
しかし人間はエゴの存在から、エゴを克服できる可能性を見つけ出すことができると信じています。
それは考え方を、感じ方を変えるという程度のことではなく、考え方の別の次元をスイッチしなければ始まらないような気がしてなりません。
この次元を変えると言うことは、何も唯物的な思考に囚われた人たちだけでなく、今日のスピリチュアルとかオカルトという分野にも同じように当てはまることのような気がします。

 センチメンタルと唯物的なこと

2021年11月20日

このセンチメンタルと言うのは、どう言う感情表現なのか、私にはよくわからない世界のものです。
おセンチになっちゃって、と言いながら女性が涙しているのをみた記憶はあります。
このおセンチというのがセンチメンタルのことで、涙もろいという意味にとってもあながち間違いではないのかもしれませんが、それだけではない様な気がします。

昔はセンチメンタルと憂鬱、メランコリーとが区別できませんでした。お互いに混ざり合っているものだといまだにはっきりと区別できないところがあるのですが、憂鬱、メランコリーの方が心の深いところに根ざしているものの様です。センチメンタルというのは、ある程度気分のもので、雰囲気に流されたたもので感情的なものとは言えないと思っています。

突然話が飛躍しますが、唯物的という時、「世界がただ物質からだけでできているという考え」と言いますが、この言い方は私を納得させてはくれないものです。そこで何が唯物的なのかと色々と考えたのですが、唯物的な世界観から実はたくさんの落し子が生まれていることに気づいだのです。センチメンタルもその一つです。例えばセンチメンタルに浸っているときに何かを決断しなければならなくなったとしたら、非常に狭い一面的な考え方から決めることになると思います。そして大抵後で後悔しています。
人生をセンチメンタルにみたら全く味気のないものです。その時に思いついたもので判断するからです。深く考えてなんかいないのです。これがセンチメンタルです。考えてなくて、状況に流されているだけなのです。ところが状況というのは時に大きな社会的な流れとなって現れることがあるので、その時は実際はセンチメンタルで皮相的なのに、社会がそういう流れにあるので、まともなことを言っている様に勘違いしてしまうのです。こういうことを煽っているマスメディアも立派な唯物的世界観からの落とし子なのです。それを支えているジャーナリズも同じです。

日本では食事をいただくときに「いただきます」と言いますが、これは食べ物となった生き物の命を「いただきます」ということです。お肉、お魚といった動物の命だけではなく、植物の命もいただくと考えていることは忘れられがちですが、私たちは植物の命も食べているので、「いただきます」という時は全ての命に対して感謝しているということです。
最近読んだいくつかの本の中に、植物への新しい理解が示されたものがありました。簡単にいうと植物にも知性があり、感情があるという見解です。今までは植物は動物とは違い、感受性はおろか感情的なものはないとされていましたから、動物は食べないけれど、植物は食べている人がいました。動物の殺される時の恐怖感がが体に入ってくるからダメだというのですが、最近の植物研究の成果に照らし合わせると、植物も同様に命を取られる時に何らかの反応をしているのですから、厳密に言えば植物を食することも避けなければならなくなってしまいます。となるとそういう考えに従うとそのうち何も食べるものがなくなってしまいます。
動物がかわいそうだ、特に鯨は人間に近いものなので、捕鯨して食べるなんてもっての外だと主張するのは、私にはセンチメンタルのような気がしてならなのです。動物を食べない、鯨を食べない、魚を食べないというセンチメンタルの延長に植物も食べないというのが本当は来るべきなのです。いやすぐそこまできている発想だと思います。そしてこのセンチメンタルの成れの果ては何も食べ物がなくなってしまうといういう悲惨な結末だと思うのです。唯物論というのはこのように非常に一面的なことを強調し、誇張するという特徴があります。
唯物的考えから生まれた政治的な思想もよく似ていて、非常に一面的で、その一面をやたらと強調しプロパガンダを使って広めます。
基本的には唯物的な考えというのは判断を狭めます。あるときは一面的にさえなります。判断するときの基準も非常に狭い考えによっています。時には雰囲気に流されているだけのこともあります。
私はとても怖い考え方だと思っているのですが、歴史的にはもうずいぶんの間唯物的な考えが支配しているので、現代人にはみんな当たり前に見えてしまうので、違和感がなくなっていますが、危険は危険ですから、いち早くここから抜け出さなければならないと考えます。
ただそのためにどうしたらいいのか、あまりにとてつもないことなので、正直途方に暮れています。

使えば使うほど増えるもの

2021年11月18日

答えを二つ考えています。
一つはなんとお金です。予想外だった方もいらっしゃるんではないでしょうか。
銀行口座の残高とか、数字として思い浮かべると、まさかと言うことですが、お金の不思議はそれ以上です。
今はお金中心社会なので、物の価値などはみんなお金的な表示になりますが、お金の元である価値というものは使えば使うほど増えると言うことです。価値を数字で思い浮かべる人はだいたいケチな人で、その人がよくやるケチるというのをやっていると、価値を値切ることなので増えることはなく、現状維持どころか、本当はどんどん減っていっているのです。
よく聞くお金がないお金がないといっている人ほど貧乏の本質を悟っているものなので貧乏神に愛された人とも言えます。
基本はお振る舞いです。振る舞うという気持ちの中にお金が入ってくれば、お金も幸せですし、人間も社会も、きつと宇宙も幸せです。

さてもう一つの答えですが、問いです。問うと答えが増えます。どんどん問うと、どんどん答えが増えます。問うことに制限はないですから、答えも際限なく増えると言うわけです。問いも、答えも一生を見れば天文学的な数字になる人もいるはずです。ところが問うのもお金を使うのと同様ケチがいて、何にも問わない人がいます。一生の間自分から疑問に思うことは何もなかったなんていう人もいます。今あるものだけで満足しているのでしょう。「足るを知る」という精神的なものとは全く逆で、「何か本質的なものが足りていない」のです。これも貧乏神のお友達で貧しい限りです。

今あるもので満足していない時は買ってきます。もちろんお金がかかりますから、買えば買うほど金銭的に貧しくなります。悪循環です。そう言う人はものを作るなんてこれっぽちも頭になく、ただ無駄なことだと考えているようです。
現代は消費社会です。もちろん生産者というサイドも存在していますが、これは物作りの精神から物を作っているのではなく、作ったものをどんどん買わせて、それでお金儲けをしたいから作るのです。物作りイコール商売ということです。消費社会で一番大事なのは、なんでも商品にするということです。価値は商品価値以外には考えられないようで、売れれば最高という精神です。
そのために宣伝、コマーシャルが大事です。最近はただ宣伝するのではなく、その商品に良いイメージを持たせることが工夫されます。イメージ商法とでもいうのでしょうか。最近のコマーシャルは本当に手が混んでいて、商品のイメージアップに相当の労力が費やされていることは確かの様です。

少し話がそれますが、今の東京芸術大学、略して芸大の前身の東京美術学校の初代の校長は岡倉天心という人物で(天心といのは号、つまり芸名で本名は岡倉覚三)、彼の言葉で私の好きなのは、当時の学生に向かって言った「売れる様な物を描くな」です。今の社会觀とは間反対のことを言っていたのです。それが原因ではないのでしょうが、一年で校長は首になってしまいました。
美術品だって商品価値を持っていることは誰もが知っています。名のある人の作品となると何億という目玉が飛び出るだけでは治らないような値段がつきます。しかしそれは結果的に商品価値がついたので、初めからその金額で取引されていたわけではありません。ピカソにも貧乏画家の時があって、水道の修理のお金も払えないほどで、お金の代わりにささっとその場でスケッチして、それで修理代に代えたと言われていますが、そのスケッチはピカソが有名画家になると何百万という金額で売買されたので、前代未聞の世界で一番高い水道修理代という逸話話があるほどです。

問えば問うほど豊かになります。人生で一番豊かな人は、一番問いを発した人だと思います。それはお金と違って、死んでからゆく世界でも重宝する物だと思います。
ただ、興味本位で矢継ぎ早に質問をするような状況を目にすることがあります。これなどは問うという精神からはずいぶん離れてしまったもので、ジャーナリズムという世界によくみられます。全く失礼ではないかと思われるような質問を投げかける悪習があります。ただ興味本位、擬似として面白いかどうかという、全く商品的問いの世界丸出しです。

しみじみとするような味のある問いを出して、秋の夜長を楽しんでください。