美しいものへの憧れ

2021年2月28日

最近何人かの人と話していて、一つ共通点があることに気がつきました。

それはコロナから生まれた極端なまでに屈折した社会状況からきているようです。

共通しているものというのは、大きくまとめれば「美しいものに癒やされる」「美しいものに憧れる」ということのようです。

 

コーラスを指導している方が、コーラスのメンバー達は以前はモダンな曲を希望していたのですが、ここ一年は、古いものをうたいたがります。古いだけでは曖昧ですが。そこに「きれいな」という言葉が添えられるというのです。

現代作曲家たちの不協和音でできている曲ははっきり拒否されるということでした。そのコーラスの指導者は「きっと日常生活が不協和音そのものだからではないか」と考えているようでした。

混乱した社会状況に中にいると、人間は心的に傷ついているのでしょう。意識して、あの人の言葉に傷ついたとかいうのではなく、今の社会のあり方に、この時代の抱える宿命に傷ついているのです。そんなとき、不協和音の、調和を乱すような響きに対しては、「もう十分」という拒否反応が出てしまうのかもしれません。

 

時代が平和でそれなりの秩序があったときには、挑発的な不協和音がが面白がられたのでしょうが、社会が混沌としているとき、その出口が見つからないで悶々としているときには、不協和音を楽しむ余裕は心の中に存在しないようです。

ふと、もう何度も繰り返していますが、悲惨な社会状況の中では上等な喜劇が書かれるべきだというノヴァーリスの言葉が頭をよぎります。彼は喜劇と言いますが、上等なユーモアと言い換えてもいいかもしれません。

日本を旅行しているときホテルで時々テレビをつけるのですが、大抵はすぐに消してしまいます。バラエティー番組は正直見るに堪えないものです。上等なユーモアの真反対の下品な笑いです。その笑い方は必ずどこかで人を傷つけているものです。そろそろそんなものから離れる時期なのではないかと思っているのは私だけではないと思います。

 

キレイな言葉が読みたくなります。詩でも、散文でも、和歌でも、俳句でもいいのです。心の中を響き渡るような言葉です。

久しぶりに百人一首を取り出して読んでいます。なんだかとてもいいです。心を調和させる言葉に飢えているのです。

私は最近よくハイドンの音楽を聴くのですが、その背景にはもしかすると、調和への微かな憧れがあったのかもしれません。

リーダーシップ

2021年2月28日

コロナによる社会的変化は潜在化していたものを明るみに出す働きがあるようです。盛んにコロナ後の社会のリーダーシップのことに関する動画がアップされているのもその影響かもしれません。特に多いのは経営的なものなので、結局は経済社会がこれからも続くことを期待しているのかと少し落胆します。

舵取り役はどんな状況でも必要なものですが、社会が混迷すると重要性が一層増します。そこで有能なリーダーが望まれるのでしょうが、望んで現れるものかどうか、私は疑問視しています。そういうリーダーは歴史的にみてあまり幸せな社会をつくつてこなかったのではないかと記憶します。

 

日本は今ままでリーダーに恵まれていた国なのでしょうか、それともリーダー不在の国だったのでしょうか。政治家を見渡せば、特に戦後の政治家達は後者ではないかと思います。

若いとき、リーダーという言葉を耳にすると、革命を引っ張る人と勘違いしていたことがあります。何かをけしかける人と思い込んでしたのです。

日本は政治家にはリーダーが見当たらなくても、宗教家に時々大型リーダーが教祖として現れます。日本と宗教は切り離せない絆があります。それゆえ政治のことを政(まつりごと)というのですが、そもそも政治というのが宗教的な祭り事として行われていたことを意味しているのかもしれません。

従って西洋的な意味での政治というのは、特に民主主義はとってつけたような実態のないまま棚上げされたものでした。舶来品は舶来品です。

民主主義はもともととても難しい制度です。私は、理屈ではどうにでもいえると思っていますが、民衆が主となる政治なんて現実には、実現不可能な机上の空論だとずっと思っていました。

フランス革命を学校の歴史の時間に習ったものと、大人になって深く知りたくて調べてみえてきたものとを比べると、全く別物だったように、理想化された民主主義と現実の民主主義の間には、天と地の違いがあります。理想を餌に民衆を拐かす学者や政治家の罪は相当深いはずです。

 

リーダーシップ論とよく似た帝王学というものがあったとは知っていますが、実際にそれに触れたことはありません。どんな内容なのかも又聞きの又聞きなのでうすらぼんやりです。

現代のリーダーシップ論は帝王学のような身分による選別はないようで、平たくいえば誰もがリーダーになれるものです。現実にリーダーというのは、人の上に立って、既にある組織をうまく切り盛りするということよりも、いざというときにとんでもない発想で事態を切り抜ける人だと思っていますから、状況の中から生まれてくるものなのかもしれません。

とんでもないことをするというのがリーダーの条件なので、リーダーは政治家タイプ、マネージャータイプの人というより、むしろ芸術家タイプの人のような気がします。反対意見をものともせずに押し切ってゆくということでもあります。たこが高く登るのは逆風が強い時です。

 

どんなリーダーがコロナ騒動の後生まれるのでしょう。国のリーダーよりも、経済界のリーダーよりも、小さな集まりの中で心のリーダーが欲しいです。そういう集まりの中で方向性を示せる人が出てくれれば、そしてそういう集まりが増えて、力をつけてゆけば、大きな流れが生まれるような気がするのですが。

本当のことはいつも小さな運動から始まっていたような気がするのです。

オンラインのあとは翻訳を試みます

2021年2月26日

 

ドイツ語からの翻訳という話になると必ず名前が出るのは森鴎外(1862 – 1922)です。ゲーテの最高の翻訳は、百年前に亡くなっている森鴎外によるものなのです。森鴎外といえば夏目漱石と並び称される小説家ということになりますが、小説の他にも多くの文学物を翻訳しています。軍医であった彼は、軍関係の翻訳もあれば、医学的な翻訳もありという、特筆した文章力の持ち主で、そのどれもが今日でも輝いているというのです。

もちろん森鴎外訳のゲーテは文語調ですから、読みにくいと言えば読みにくく今の若い人は手にするのも億劫がる代物ですが、言うなれば格調が違います。この格調は文語調だからというだけではなく、森鴎外の文章センスに負う物なのでしょうが、やはり文語調という言葉の調べは無視できない要因です。文語調に乗った翻訳は独特の雰囲気の中で語られます。オーラを感じると言ってもいいほどです。余談ですが、聖書にも文語訳があり、私の知る多くのクリスチャンが、今でも文語訳の聖書を読んでいることを知っています。

 

さてシュタイナーの翻訳について語りたいのですが、文語調でやるのはどうでしょうか。私は絶対にいいと思うのです。

ところが文語調にしたら、私が願っている一人でも多くの人に、何回も読んでもらいたいという願いは達成できなくなってしまいます。ということはやはり現代語でということになります。

大事なことは文語調を文語調成らしめている、スタイル、形式以前の精神です。文語的な精神を持った現代語ということです。

 

普遍人間学は人数的にはごく少ない人を前に行われた講演会だと聞いています。よく似ているのは治療教育講座です。こちらはもっと極端で、速記者すら入れずに行われました。今日講演録として残されたのは聞いた十二人の参加者のメモの寄せ集めから文章にした物です。普遍人間学の方はというと速記者だけは入っていました。しかし速記というのは非常に特殊なもので、速記者はシュタイナーが喋った言葉を録音機のように筆記するのではないのです(それは不可能です)。単語をメモったものを事務所や自宅に帰ってやおらと文章にするのです。それをもとに今度は本するために編集者の手が入ります。ということですから、単語はそのまま受け継がれるでしょうが、文章の命である行間は、速記者の腕と編集者の腕にかかっている難しい課題なのです。

 

このところを踏まえて、さてシュタイナーの普遍人間学に相応しいスタイルはということですが、ドイツ語を読んでいて感じるのは、大変な熱意です。できるだけ翻訳でもその熱意を伝えるスタイルでなければならないということです。聞き手に向かって「よろしいですか、よろしいですか」と何度も何度も繰り返しながら話を進めているのです。彼はきっと聞き手の、これから先生になって子どもの前に立とうとしている若い人の目を覗き込むように「よろしいです」と話していたのだと思います。

ところが今日の読者はそこにはたいして興味がないと思います。ということはこの熱意があまり表に出てしまうと、今日の読み手にとってはうるさいものになってしまいうということです。要注意です。今日では却って冷静なスタイルの方が向いている様に思います。淡々とした流れがふさわしい様に思います。ただ冷静で、淡々と流れる文章の奥に熱が込められたら最高です。

 

ドイツ語の特徴は、日本語からすると堅苦しい概念用語です。ドイツ語では普通なのですが、それを日本語の流れに取り入れると、重い石のように沈んでしまいます。説明するとくどくなるしと、どこに妥協点をつ見つけたらいいのか悩むところですが、この点に関しては、やってゆくうちに答えが出るだろうと私は意外と楽観しています。

というところで、少しずつつ訳しやすそうなところから始めてみました。まだ何も言えません。

 

ただ訳しながら直面したことが一つありました。

この翻訳を趣味でやったら、途中で飽きた時(私はとても飽きやすいタチです)放り出してしまうだろうということでした。

仕事という枠の中に入れておくことで持続が可能になり、逃げられない状況の中でとにかくも最後までたどり着くだろうということです。

仕事意識に支えられるというのは、実は私が講演を三十年前に始めた時、周囲の人たちに口を酸っぱく言われたことでした。「しっかりと仕事という体裁を整えてください。そうしないと続きませんから」そうして当時「仲企画」というのを竹田喜代子さんを中心に作ってもらいました。

ライアーで日本の歌の伴奏をつくつているときにもこれをコピーで回し弾きしたら、誰が作ったのかはすぐに曖昧なものになってしまし、勝手に手が加えられて有耶無耶なものになるので、しっかり楽譜本を作ることをライアーゼーレの社長小沼喜嗣氏に言われ、製本化しました。

 

仕事という形を整え、そこに賛同者からの寄付を集め、私の活動費用と、いつの日か製本できる日のための資金にしようと考えています。まだどのような名称を与えたらいいのかといった具体的なことはかわかりません。仮称としては「仲正雄シュタイナー翻訳企画」などを考えています。この方面の経験者たちにこれからいろいろと聞いてみたいと思っています。どなたか推薦してくださる方がいれば、ぜひ教えていただきたいと思っています。

今日はこの辺で