普遍人間学の第四講から

2021年2月20日

シータイナーは普遍人間学の第四講で意志の問題を触れ、そこで彼の示す人間構造に沿って意志の現れ方が違うことを丁寧に述べてゆきます。

意志は本能として肉体という形態、体の構造に宿っていることから始めます。本能は人間以上に動物に見られることを指摘し、ピーパーの例を挙げながら、ビーバーの肉体の作りの中に本能が生きているというのです。ビーバーの本能とはすでにビーバーの体の作りに見られるということです。その本能の源のことを意志と呼ぶというです。

私は本能を直感と混同していたのですが、このくだりを読みながらひとまずは直感と言っても間違いではないことを確認しました。間違いではないけど、その直感は肉体という形態、体の形に依存していることが付け加えられ、本能の元は意志だと指摘されたのです。これを意志と呼ぶか、という感じでしたが読み進めます。

意志は見える形を取らないと何度も前置きしています。見えないけれど存在している意志を私たちの日常に照らし合わせてくれるのです。シュタイナーのこの手口は見事です。

私が特に惹きつけられたのは「決断」のくだりです。決断が意志によるのだというくだりでした。私たちの下している決断は、決断しきれないものを残しているというのです。決断は日常茶飯事です。決断しない日がないほどです。人生は決断の連続だとも言えます。決断できない時のことも含めて、決断にはいつも決断しきれないものが残っているという事実を指摘します。そこに気付かされ、本当にそうだと頷いてしまいました。しかもそこで決断しきれなかったものが死後に引き継がれてゆくと言うのですが、今の段階ではシュタイナーの言葉に自分の考えでコメントできません。ところが、取り立てて否定することもないのでそのまま受け入れています。

この決断のくだりは読んでいてドキドキでした。初めて自分で下してきた決断をもう一度目の前に広げて見せてもらった感じです。決断によってある時点の人生の方向を決めるわけですが、とにかく決断したという状況があまりに多く、決断しきれずに、籤やあみだに任せたこともあります。それでも一応、決断したとしておいたのです。それでとりあえずは方向が決められたことになっても、決断の中身は決断しきれていないもので溢れているのが現実です。

決断しきれないものを抱えて、後悔を引きずることが一つのエゴだと言われた時も、「そこまでいうか」と一瞬本から目をそらしてしまいました。しかしよく考えてみると確かにそうだという気がしてきて、再び読み始めたわけですが、後悔よりも「次にもっと良く」を考えることでエゴが越えられると言うくだりでは、意志のことがよくわかっている人の発言を堪能しました。さらにそのプロセスに意図という言葉をあてがい、その意図の中には願望が生きていることを示してくれます。意図も願望も元をただせば意志の現れの姿だったのです。

普段素通りしていることが言葉で整理されます。そんな時言葉というのは闇を照らす光の様です。言葉にしていなければ暗闇の中で見えないままでいたのですから。

私は言葉には用を足すための言葉と、それ以上のものがあることを感じていますが、今回も普遍人間学を読み返し、言葉は用足しの道具ではなく、もっと大きな役を担っていると改めて感じた次第です。

 

 

 

結果を出すでは語り尽くせない、成長の意味

2021年2月20日

結果を出すという言い方は現代では当たり前のことなので、そこに異論も反論も挟むことは無謀なことです。結果のでないことなんかする意味がないというのが正論ということになります。

結果には原因があります。原因と結果は人組です。いい結果が出た時、そこにはそれを生み出した原因があるので、原因が分析され究明がなされます。現代社会はこの原則で動いているのではないのでしょうか。

この考え方は歴史を見ても言えるのかどうか考えるのは、暇潰しの余談でしょうが、一度は考えていいことの様に思います。歴史を見ると、今ほど結果にこだわる時代はなかった様に思います。何が今日の結果重視の考え方に導いたのでしょう。やはり「物」にこだわる世界観のもとで生まれた様に思えてなりません。

 

今というのは、単に過去の集約されたもの、過去が到達したものというだけでなく、今の中には未来が内在しています。ただ漠然とした将来、未来ではなく、今を次に踏み出す一歩の原動力という意味での未来です。結果重視の今が次の一歩をどの様に踏み出すのかにとても興味があります。

現在の常識の中にいるだけでは、今が見えていないかもしれないのです。常識はみんながその中にいるときは居心地がいいものです。ところが、実はそれが一つの落とし穴だと気づく人もいて、そこから抜け出すことを提唱することもありますが、その声はいつもかき消されてしまいます。それだけでなく変人扱いされるものです。

 

結果を求めるという今日の常識にも落とし穴があるのではないかと考えることは有意義多なことだと思います。

結果が出た後どうするのでしょう。結果は満足ですから、満足の後、次の結果に向かって動き始めるのでしょう。そこにこそ発展があるからです。発展はまた新しい満足を求めます。しかしそれは成長とは言えない様な気がします。発展と成長は違います。社会は発展はしますが、成長することはありません。人間は成長しますが、発展はありません。成長の不思議がここにあります。発展は外から見られているので外からの目が物差しが発展を判断します。成長は内側で起きていることなので、意識できないものです。

修行というのは精神的な訓練のことで、悟りを目指しています。悟と自分の成長とはどの様な関係にあるのでしょうか。もしかすると修行も外から自分を見ていることになるのではないかと思うことがあります。滝行、千日回峰行という過酷な修行があります。無事修行が終わると阿闍梨という位を得るわけですが、それを成長と見るかどうかは誰が決めるのでしょうか。

 

成長という言葉を発展という考えで包み込んでしまうと、成長は見えなくなってしまいます。なぜか。それはそもそも成長は見えないものなのですから、発展と同じ意味合いで成長を語ると、それは成長ではなくやはり発展のことになってしまうからです。

公園の大きな池でボートを借りて漕ぐとします。ボート乗り場でお金を払って、繋がれているボートに乗って、動き出す準備ができて、いざ出発となるのですが、中からボートを動かそうとしてもボートは動かないものなのです。内力は全く功を奏しないので、オールで漕ぐか、外にいる人に押してもらうしかありません。

成長はそんな感じです。自分で成長したと言い張る人ほど、単なる思い込みに過ぎないものです。

自分としては沢山の立派な本を読んだのだから、色々な訓練を受けたのだから成長したと思うのも、錯覚です、自己満足です。教養を積んだからと言って成長したとは言えないのです。知識は増えたかもしれませんが、それが成長につながるかどうかは別のことです。成長は次元の違うところで起こっていることなのです。成長とは、そうした知識、情報、あるいは何かの能力がついたという時点では語れないものなのです。成長のこうしたところを、いみじくも言い表しているのは、能役者の世阿弥が言う「離見の見」かもしれません。しかしそれも舞台に立ち自分の姿を瞬時に見ることに通じているので、成長をみる目とは言い切れません。

結局、成長を知ることも見ることも私たちはないのです。

 

成長なんかないのだというのではありません。あります。ただ外から私たちが期待する様な形としては見えないというだけです。中からは測る物差しなんかないのです。なんにも手応えがないので、ある意味で虚しいものです。しかし成長してる時私たちは感情的に豊かになっています。喜び、嬉しさという感情となって満たされたものが生きる中で迸り出ている時が成長している時です。

成長というのは実に無力なものなのです。達成感の様なものとも違います。結果というものもありません。また何の助けにもならないものです。それなのに人間には成長という営みが与えられているのです。人間として輝くためにです。

ラジオのこと

2021年2月19日

今時ラジオなんて笑われてしまうかもしれませんが、ラジオが好きです。

視力に問題があって(右が2.0で左が0.1)、そのため画面を見るということが苦手で、テレビには馴染めなかった記憶があります。かといって子どもの頃はラジオも一家に一台でしたから、番組の取り合いでした。ですから中学の頃に小さなトランジスターラジオを買ってもらった時の喜びは格別でした。夜布団の中で一人で聞いた時は人生に異変が起きたぐらい嬉しく、夜は早く布団に潜ってラジオを抱えて深夜まで聞いていたものです。深夜放送が始まったのもその頃からだと思います。

ドイツに来てからも短波放送(話通じていますか)の入るラジオを買って、日本から毎日一時間送られてくる短波放送を聞いていました。これもインターネットの普及で10年くらい前に廃止されてしまいました。天気が悪い時は電波がうまく飛ばないのかよく聞こえないこともありました。こんなふうにして、いろいろな不便を感じながら当時は世の中の出来事と繋がっていたのが今は懐かしいです。

 

ラジオとテレビとを比べると何かが違います。

ラジオにはまだ文化の香りが残っていると感じるのは私だけではない様です。ではなぜテレビにはそれがないのか。

私の祖父は横浜生まれの横浜育ちですから生粋の浜っ子です。明治23年(1890年)生まれです。当時の横浜は港町であったため東京よりも珍しいものが先に入ってきたそうで、東京の大学にいった時、東京が田舎に感じられたと言っていました。テニス場もあり、野球も「ベイス」と呼んで既に小さい頃からみんなでやっていたそうで、92歳で亡くなるまで大の野球ファンでした。

祖父は野球がテレビ放送される様になってからも、ラジオで実況放送を聞いていました。「テレビの野球放送はつまらない」、「ラジオで聞いている方が野球が見えるんだよ」が口癖でした。子どもの私はおかしなことを言うと思っていましたが、今にして思えばなかなか鋭い指摘だと感心しています。同世代の人から「ラジオで聞いた広沢虎三の講談はよかったよ」、「話が見えたからね」と言われたこともありました。

 

映像がない方がよく見える、と言うのを私も体験したことがあります。友人が海外旅行にゆき、帰国してからすぐに訪ねてきてくれて、たくさん珍しい土産話を聞きました。とても楽しいひとときで、別れ際に「写真ができたらまた来るから」といって帰ってゆきました。後日写真を持ってまたやってきて(当時写真は、現像して、ネガに起こして、それを焼き付けるので時間がかかります)、お茶をしながら写真を見ました。写真好きですから、手塩にかけてできた一枚一枚を丹念に見てゆきました。とてもよく撮れていたのですが、前回話を聞きながら私が勝手に想像した風景の方が遥かに美しかったのです。もちろんそんなことは口に出して言わなかったですが、今にして思うのは、人の話というのは映像を生み出し、それは写真による情報以上のものだと言うことです。